渋谷駅前で待ち合わせのシンボルとなっている忠犬ハチ公像。
そのモデルとなったハチの飼い主である、上野英三郎博士が、実は現代日本の発展に欠かせない人物だったことを知っていますか?
上野博士は国内各地で農業土木の教育を行った教育者で、その教えは農業の分野に留まらず、大正・昭和と続く日本を支えていくこととなりました。
上野英三郎とは、いったいどんな人物だったのか。
亡くなってから10年もハチ公が待ち続けたその人となりに、生涯を通じて迫っていきましょう。
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上野英三郎はどんな人?
- 出身地:三重県一志郡本村(現・津市久居元町)
- 生年月日:1872年1月19日
- 死亡年月日:1925年5月21日(享年53歳)
- 日本で最初となる農業土木の権威。明治以降の農業の生産性向上や、関東大震災後の復興に大きく貢献した。忠犬ハチ公の飼い主として有名。
名前 上野英三郎
西暦(年齢)
1872年(1歳)三重県一志郡本村(現・津市久居元町)にて、上野六兵衛の三男として生まれる。
1887年(15歳)東京農林学校に入学。
1890年(18歳)帝国大学(のちの東京帝国大学、東京大学)農科大学予科に入学。
1895年(23歳)帝国大学農科大学農学科を卒業し、大学院へ進む。
1900年(28歳)大学院を満了し、東京帝国大学農科大学の講師となる。
1905年(33歳)農商務省から農業土木技術員養成官を委託され、各地で講演・指導を行うようになる。
1908年(36歳)ドイツ・フランス・アメリカに留学し、農業土木の知見を深める。
1911年(39歳)農科大学教授に昇進。農業土木専修コースを新設する。
1924年(52歳)秋田犬のハチを飼い始める。
1925年(53歳)大学の講義中に脳溢血で倒れ、生涯を終える。その後ハチは10年間、上野の帰りを待って渋谷駅に通い続けた。
上野英三郎の生涯
ここからは上野英三郎の生涯について、詳しいエピソードを辿っていきましょう!
三重県の中心地にて生を受ける
1872年、上野英三郎は三重県一志郡本村(現・津市久居元町)にて、上野家の三男として生まれます。
津市は戦国大名・藤堂高虎が津城の城下町として繁栄させた海沿いの街。
現在も県庁所在地として、県下一の都市として愛されています。
上野博士の歩んだ農業土木の世界は、それこそ自然と人の協調の代名詞。
都市と海を擁した津市の土地柄にも、不思議と通じるものがありますね。
なお、博士の墓所は東京の青山霊園にもありますが、この地の久居元町・法専寺にも設けられ、同市の小戸木神社には記念碑も建てられています。
地元民のあいだでは、東京でいうハチ公と同じぐらい愛されているわけですね。
日本初の農業土木の権威
上野博士は1887年に東京農林学校に入学。
以降、現在の東大農学部にあたる帝国大学農科大学に進み、その後大学院満了と、農業の道へ邁進していきます。
特に博士が専門としたのは農業土木について。
このころ国内では農業に関する研究はある程度進められていたものの、それにまつわる土地整備に特化しているのは、上野博士ただ一人でした。
つまり農業土木の権威としては、国内初の存在だったのです。
そして当時は1899年に制定された「耕地整理法」により、農業土木の技術普及が急がれていました。
案の定、政府から白羽の矢が立てられた上野博士は大学講師を務めるかたわら、農商務省委託の農業土木技術養成員として、全国各地で講演・指導を行っていくことに。
1908年にはアメリカ・フランス・ドイツへも留学し、現地で学んだ耕地技術を日本の後進に伝えていきます。
その生涯に育成した人材の数は3000人を越えるといわれ、農業の近代化への貢献は計り知れません。
そんな博士の著書『耕地整理講義』は、農業土木のバイブルとして後世の従事者たちにもその知識を広く伝えていきました。
上野英三郎が広めた農業土木の技術とは
上野博士が推し進めた農業土木の技術とは主に
・用水設備や農道を整備し、業務効率を高める
・土地の所有権を明確にし、農業利益の拡大を目指す
といったもの。
当時の農業事情においては、古来の制度によって複雑化した土地の所有権や、整備の行き届いていない農地の状態が、日本の近代化を目指すうえで大きなハードルとなっていました。
政府が制定した「耕地整理法」はこれを解決するためのもので、要するに
「ずさんだった農地を整備することでもっと生産性を上げようよ!」という政策だったわけです。
上野博士の教えは主にその実現を目指したものだったのですね。
震災後の復興を支えた上野英三郎の弟子たち
政策の実現に奔走した上野博士の功績は前述の通りいうまでもありません。
しかしあまり知られていないのが、このとき育成された人材が1923年の関東大震災の復興事業において、大きな活躍を見せたということ。
震災で崩壊した街を建て直すため、土地整備に特化した上野博士の弟子たちの力がいかんなく発揮されたのです。
日本の農業の生産性向上と、震災後の復興。
時代柄、急務とされたこれらに貢献した博士はまさに時の人といえます。
忠犬ハチ公との出会い
上野博士のエピソードでもっとも有名なことといえば、やはり忠犬ハチ公との出会いでしょう。
博士は1924年、52歳のころにハチを飼い始めました。
博士は兼ねてから秋田犬を飼いたいと思っており、ハチとの出会いはその念願が叶ってのもの。
ハチのほかにも「ジョン」「エス」という2頭の犬を飼っており、相当な犬好きだったことがわかります。
なかでも狩猟犬だったジョンは、子犬のハチの面倒をよく見たといい、3匹は仲睦まじく育てられたそうな。
渋谷駅への送り迎えにも、いつも3匹一緒にやってきていたといいます。
想像するにも微笑ましい光景ですね。
そんなハチを飼い始めて1年ばかりが経とうというころの話、上野博士は大学での講義中に脳溢血で倒れ、53歳にして亡き人となってしまいます。
以来、10年間渋谷駅へ通い詰め、博士の帰りを今か今かと待ち続けるハチの逸話は誰しも知るところでしょう。
ハチは上野博士の死を理解していた?
興味深いのは、上野博士が亡くなったその日から3日間、ハチがエサを食べようとしなかったという話。
博士が亡くなってから10年間、駅に通い続けた逸話は普通に聞けば
「もう博士は帰ってこないんだよってことを、理解できなかったのかな…」
という印象ですが、ハチは博士が亡くなった当時、明らかにその死を理解した様子を見せているのです。
理解はできても、どうしても博士でなければダメだという後ろ髪引かれる想いがあったのか…。
単純な習性ではないと感じさせられるその行動から、博士がどれほどハチを大事に育てていたのかが伝わってきますね。
今も青山霊園には、博士と並んで仲良く、ハチのお墓が祀られています。
きょうのまとめ
日本の農業土木研究の第一人者として、農業だけでなく、現代につながる都市の繁栄にも大きく貢献した上野英三郎。
あくまで一教育者という性質から、その功績はあまり知られていません。
しかし知ってみると、博士がいなければ現代の豊かな暮らしは成し得なかったといえるぐらいのものでしたね。
最後に今回のまとめです。
① 上野英三郎は国内初の農業土木の権威。農業の近代化に貢献し、生産性を大きく向上させた。
② 上野博士が育てた農業土木の技術者たちは関東大震災の復興において、土地整備の技術を活かして大きな活躍を見せた。
③ 博士の愛犬ハチ公は、博士が亡くなってから10年間、渋谷駅に通い詰めてその帰りを待っていた。しかし博士の死についてはしっかり理解しており、その行動は単純な習性ではないと伺える。
ハチ公のエピソードは後にも先にも類を見ないものですが、要は上野博士が、ハチがそれほどに入れ込むほどの人だったということです。
生涯をかけ、人の豊かさのために奔走できるその人となりは、人間とは違う動物にしても嗅ぎ分けることができるものだったのでしょう。
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