日本陸軍の創成期である明治時代において、その中核を担った
児玉源太郎。
特に日露戦争での功績は大きく、満州参謀総長を務めた彼の戦略によって早期講和に繋がったことは疑いようもありません。
また児玉の活躍は陸軍だけに留まらず、その人徳から内務大臣や文部大臣など、国会の要職を務めた経験も数多くもっています。
明治の日本を背負って立つ一員だった児玉源太郎は、いったいどんな人物だったのか。
今回はその生涯から、彼の人物像を探っていきましょう!
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児玉源太郎はどんな人?
- 出身地:周防国都濃郡徳山(現・山口県周南市児玉町)
- 生年月日:1852年4月14日
- 死亡年月日:1906年7月23日(享年54歳)
- 明治時代の陸軍の中心人物。日露戦争で満州軍の指揮を執り、日本の勝利へ導いた。国会からの信望も厚い。
児玉源太郎 年表
西暦(年齢)
1852年(1歳)周防国都濃郡徳山(現・山口県周南市児玉町)にて、徳山藩の中級武士・児玉半九郎の長男として生まれる。
1856年(5歳)開国を巡る藩内の対立により、父半九郎が蟄居(謹慎)を命じられ、座敷牢のなかで死没。以降、義兄の次郎彦によって育てられる。
1860年(9歳)藩校・興譲館に入学。剣術・槍術・文学・漢学などを学ぶ。
1864年(13歳)当主の次郎彦が藩内の対立に巻き込まれ暗殺される。児玉家は邸宅を没収され、家名断絶の道を辿ることに。
1865年(14歳)徳山藩が倒幕に傾いたことで児玉家の再興が許され、中級武士の家系へと返り咲く。
1869~1885年(18~34歳)陸軍に入隊。戊辰戦争・西南戦争などで数々の武功を上げ、キャリアを築いていく。
1886年(35歳)陸軍大学校幹事になり、翌年大学校長になる。
1892~1896年(41~45歳)陸軍次官・陸軍省軍務局長・陸軍省法官部長など、軍政に携わる要職を任される。
1898~1903年(47~52歳)日清戦争の勝利で割譲された台湾を統治するため、台湾総督に任命される。以降、陸軍大臣・内務大臣・文部大臣などを兼任した。
1903~1905年(52~54歳)陸軍参謀本部次長・田村怡与造の急死により、参謀本部次長・満州参謀総長に就任。日露戦争の指揮を執り、早期講和に導く。
1906年(54歳)終戦後は陸軍参謀総長を務めていたが、7月23日、脳溢血により自宅で急死する。
児玉源太郎の生涯
児玉源太郎は、1852年4月14日、周防国都濃郡徳山(現・山口県周南市児玉町)にて誕生しました。
父は長州藩の支部に当たる徳山藩の中級武士・児玉半九郎。
武士の家系の長男として生まれた児玉は将来も約束され、裕福ではないものの、安定した生活を送っていくはずの境遇でした。
しかし江戸時代から明治時代へと移り変わろうとするこの時代の大きな動乱に、児玉家は巻き込まれていくことになるのです。
どん底に突き落とされた幼少期
1853年の黒船来航により、幕府は開国を余儀なくされ、以降、外国人が国内に出入りするようになっていました。
この流れに危機を感じた武士たちが起こしたのが尊王攘夷運動で、児玉の父・半九郎も攘夷派の一因でした。
※尊王攘夷運動…外国人を追い出して鎖国を維持しようとすること
半九郎は攘夷派のなかでもかなり活動的で、開国と攘夷を巡って藩の重役にもたびたび噛みついていました。
そんな彼を煙たがった重役は、あるとき半九郎に蟄居(謹慎)を命じます。
刑を受けた半九郎は抗議の意味を込めて食事を一切受け付けず、なんとそのまま座敷牢のなかで飢え死にしてしまうのです。
相当に意志の固い人物だったことは見て取れますが、このとき児玉はまだ5歳。
残された家族のことも考えてあげて!と言いたくなりますが、そこは武士のプライドとか、いろいろあるのでしょうか…。
幸いなことに長女の久子が結婚し、夫の次郎彦が養子となったことで、児玉家の家系は保たれていました。
しかし、1864年、児玉が13歳のころ、その次郎彦までも、藩内の対立によって暗殺されてしまうのです。
こうして児玉家は見る見るうちに没落していきます。
父親、父親代わりの義兄が続けて亡くなり、生活は困窮。
児玉の幼少期は、一気にどん底に突き落とされてしまったわけですね。
陸軍でのキャリア
一時は邸宅も没収され、家名断絶の状態にまで落ちてしまった児玉家ですが、1865年のこと、藩の方針が倒幕へと傾き始めたことをきっかけに、家名再興を許されます。
そこから児玉は藩の兵として戊辰戦争最後の戦いである函館戦争に参加。
新政府軍の勝利によって編成された兵部省に仕官し、1872年からは、兵部省の廃止によって設立された陸軍でのキャリアを積んでいくことになります。
新政府の成立から間もない時代柄、反乱も相次ぎ、児玉自身も以下の3つの戦争に従軍しました。
・1874年
佐賀の乱
・1876年
新風連の乱
・1877年
西南戦争
特に西南戦争では50日にも及ぶ激戦となった熊本城籠城戦に参加。
司令長官の補佐を買って出て、13,000人からなる薩摩軍の猛攻から熊本城を守り抜いた一員となりました。
このような功績を経て、児玉は20~30代にかけて破竹の勢いで昇進していきます。
35歳からは陸軍大学校の校長などを経験し、40代からは陸軍次官・軍務局長など、軍政を担う重役に任じられるように。
まさに絵に描いたような出世街道をひた走っていくわけですね。
国会の重役を歴任
1898年になると児玉は、日清戦争で割譲された台湾を統治するための台湾総督に任命されます。
このとき児玉は台湾総督府民生局長の後藤新平と協力し、現地民の反乱がほぼ起こらない穏やかな統治を実現したと、高く評価されています。
続いて国会の要職も任されるようになり、以下のように、もう児玉抜きでは行政が回らないような状態に。
・1900年~1902年
陸軍大臣と台湾総督を兼任
・1903年
内務大臣・文部大臣と台湾総督を兼任
それだけ国会において信用を勝ち取っていた人物であることが見て取れますね。
ここまで上り詰めれば、もう児玉のキャリアで語ることもないような気もしてきますが、実は、この次に彼の人生でもっとも大きなターニングポイントといっていい出来事が待っているのです…。
日露開戦に伴う降格人事
1900年代に差し掛かるころのこと、ロシアが満州、朝鮮半島と勢力を伸ばそうとする動きがあり、
「放っておけば、ゆくゆくは日本まで占領されてしまう!」
という脅威が国内に立ち込め始めます。
これを受けた陸軍は万全をきした状態でロシアに対抗できるよう、軍内の人事を急ピッチで整えていました。
しかし開戦を目前にした1903年のこと、この急ピッチの人事で参謀本部次長となった田村怡与造が過労により急死してしまうのです。
なんでも対ロシアの戦略を練るのに根を詰めすぎた結果なのだとか…、いかに切羽詰まった状況だったかが伝わってきます。
ともあれ、参謀本部次長の座を空席にしておくわけにはいきません。
かといって、その重責を担える人物は陸軍内でも限られている…ということで、児玉に白羽の矢が立つのです。
すると児玉は降格人事になることなど気にも止めず、すぐさま内務大臣を辞職し、陸軍参謀本部次長に就任。
彼は俸給や地位ではなく、「自分が今、どう動くことが国のためになるか」で動く人物だったのです。
日露戦争での活躍
日露戦争での児玉の働きは、それはもう一世一代の大仕事といっていいでしょう。
・第一国立銀行をはじめ、多くの銀行を設立した経済界の重鎮・渋沢栄一を説得し、約20億円に上る戦費を調達
・海軍大臣・山本権兵衛と歩み寄り、陸軍と海軍が一丸となって戦える体制を整える
・満州軍参謀総長を兼任。朝鮮半島からロシア軍を退かせるだけでなく、ウラジオストク・樺太にも牽制をかける作戦で早期講和に結び付けた
などなど、挙げ出せばキリがありません。
しかしあえて紹介するなら、旅順港の攻防が一番有名な逸話でしょう。
この戦局において陸軍は、港内を陣取るロシア軍を狙い撃ちにできる地形として、203高地の占領を目標にしていました。
しかしふたを開けてみると作戦通りにはいかず、陸軍は敵の攻勢に攻めあぐね、203高地の占領は4か月にも渡って頓挫してしまいます。
これを受けた児玉は
「これ以上の犠牲は出せない」
と意を決して現地へ向かい、直接軍の指揮を執ることに。
すると、なんと彼の到着からわずか4日間で203高地の占領に成功してしまったというのです。
これに関しては、児玉の功績とするのは真偽が定かではないとする研究者もいる様子。
しかしそんな逸話が出来上がってしまうことだけでも、陸軍内での信頼の厚さは十分伺えますよね。
海外諸国との共存を志した晩年
日露戦争を終えると、児玉はそのまま陸軍参謀総長に就任。
彼は陸軍の重役としては珍しく、戦後の軍備拡大に反対し続けたといいます。
武力で制圧するのではなく、海外諸国と持ちつ持たれつの関係で共存していきたいと児玉は考えていたのです。
このあと第一次世界大戦・第二次世界大戦と列強に対抗し、軍事に傾倒していく日本とは、真逆の考え方の持ち主だったわけですね。
残念ながら、彼は参謀総長に就いたあとすぐ、1906年7月23日、54歳の若さでこの世を去ります。
きょうのまとめ
家名断絶というどん底から這い上がり、陸軍、もとい国家の要職となるまで上り詰めた児玉源太郎。
彼の生涯に迫った今回、最後にそのまとめをしておきましょう。
① 父親の死や家名断絶など、児玉源太郎の幼少期は苦悩に満ちたものだった。
② 台湾総督・内務大臣・文部大臣などを歴任。政治手腕を高く評価されていた。
③ 日本を守るため、降格人事など気にも止めず、日露開戦の準備・戦場指揮にひた走った。
④ 軍事力の強化ではなく、海外諸国との共存に活路を見出していた貴重な考えの持ち主だった。
要職を歴任したこと、日露戦争での奔走や、戦後の軍備拡大への反対など、児玉の行動はいずれも国を守ることを第一に考えてのものだったのではないでしょうか。
彼が晩年に見出した「海外諸国と争うのではなく、共存する」という平和的な考え方からも、多くの人が信頼を寄せたその人柄がよく伝わってきます。
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