藤原良房は、平安時代前期の公卿です。
あの藤原道長が登場する約150年前に活躍した彼は一体どんな人物で、
どんな活躍をしたのでしょうか。
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藤原良房はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:804年
- 死亡年月日:872年10月7日(享年69歳)
- 平安時代前期の太政大臣。皇族以外の人臣として初めて摂政となり、摂関政治の基礎を創った
藤原良房年表
西暦(年齢)
804年(1歳)藤原冬嗣の次男として誕生
814年(11歳)嵯峨天皇皇女・潔姫と結婚
836年ごろ(33歳ごろ)権中納言となる
842年(39歳)承和の変。妹・順子の息子道康親王が皇太子となる
848年(45歳)右大臣となる
850年(47歳)仁明天皇崩御。甥の道康親王が文徳天皇に即位
857年(54歳)太政大臣となる
858年(55歳)文徳天皇崩御。孫の惟仁親王が清和天皇に即位。清和天皇の後見をして政治を執る
866年(63歳)応天門の変。事件処理の過程で伴氏、紀氏など他の有力氏族を排斥した。人臣として初めて摂政となる
872年(69歳)病没
藤原良房の生涯
平安時代に活躍し栄華を誇った氏族・藤原氏の存在は皆さんもご存知のことでしょう。
藤原良房は、藤原氏が繁栄するために「摂関政治」(天皇家との外戚関係を利用し、天皇の摂政や関白になって実質的に政治をおこなうこと)を始めた人物です。
彼はその生涯で次々と前例にないことを実現していきました。
特別扱いの藤原良房、誕生から出世まで
藤原良房は804年、嵯峨天皇に信頼された大変優秀な政治家である左大臣・藤原冬嗣の次男として誕生。
823年に嵯峨天皇の皇女・源潔姫と結婚します。
既に臣籍降下(皇族を離れて姓を与えられ臣下となること)していた皇女ではありますが、「天皇の娘が臣下に嫁ぐ」という前代未聞の特別待遇を受けたのが良房だったのです。
仁明天皇の時代には、天皇の実父である嵯峨上皇、そして皇太后橘嘉智子に父親同様重く用いられ、彼らの支援でみるみる出世します。
840年に中納言になり、
842年の39歳の時には正三位、右近衛大将を兼任しました。
さらに、仁明天皇には良房の妹である順子が嫁ぎ、皇子・道康親王が誕生しています。
良房の繁栄への戦略
良房は自分自身の昇進・権力強化、そして藤原氏の勢力拡大のためにあらゆる方策を講じます。
842年の承和の変では、淳和上皇の皇子で皇太子だった恒貞親王を廃太子し、自分の甥である仁明天皇の皇子・道康親王を皇太子に据えました。
同時に、恒貞親王を推していた橘氏・伴氏を排斥しています。
良房は娘の明子を道康親王が皇太子だった時代にすでに入内させていました。
850年に道康親王が文徳天皇として即位すると、すぐに明子が文徳天皇の第四皇子・惟仁親王を出産。
良房は、文徳天皇の別の后との子である3人の兄たちを押しのけて、まだ生後8か月の赤ん坊・惟仁親王を皇太子にすることに成功しました。
857年に太政大臣に就任した良房は、跡継ぎの男子がいなかったため兄の長良の三男・基経を自分の養子にしています。
858年、32歳の若さで文徳天皇が崩御すると、皇太子・惟仁親王は9歳ながら清和天皇として即位。
そして良房が天皇を後見しました。
さらに清和天皇の元服の2年後、866年には長良の娘つまり良房の姪である高子を9歳も年下の天皇の后とさせました。
こうして良房は、天皇家との結びつきを強固にしながら将来への準備を着々と進めていったのです。
応天門の変から死
一時病気で政務を退いていた良房ですが、
866年に政治事件「応天門の変」が起きると清和天皇は良房に「摂政宣下の詔」を与えます。
これは皇族ではない者が天皇の摂政となる最初の例となりました。
良房は応天門炎上事件の犯人として伴善男らを断罪し、関係者の伴氏・紀氏を排斥したため、朝廷における藤原氏の力はますます強力になりました。
良房は872年に流行病が原因で死没しています。
良房の他氏排斥
藤原良房が藤原氏の勢力を強化できたポイントとして2点挙げられます。
それらは、
・天皇家との外戚関係を結んだこと
・他氏排斥をおこなったこと
です。
ここでは、良房が行ったとされる2つの他氏排斥事件を見てみましょう。
842年 承和の変
承和の変は、藤原氏による最初の他氏排斥事件でした。
これにより良房は皇位継承者だった人物を廃するという「廃太子」まで行っています。
当時、天皇即位は
2. 第53代・淳和天皇(嵯峨天皇の弟)
3. 第54代・仁明天皇(嵯峨天皇の息子)
の順になっており、次の天皇は淳和上皇の息子で皇太子の恒貞親王が即位する予定でした。
しかし藤原良房の妹・順子が仁明天皇の中宮となり、道康親王が誕生。
すると、良房は恒貞親王よりも、自分の甥・道康親王の皇位継承を望むようになったのです。
840年に淳和上皇、842年に嵯峨上皇も崩御。
恒貞親王を次の天皇と考えていた上皇たちが亡くなると、彼に仕える伴健岑と橘逸勢は、危機感を募らせます。
彼らが皇太子・恒貞親王を守り避難させようとすると、良房は謀反を企てたとして彼らを逮捕して流罪に処し、関係者たちをも京外追放や左遷処分としたのです。
さらに皇太子・恒貞親王は責任を取る形で皇太子を廃されてしまいました。
その後、藤原良房は大納言に昇進。
結局、道康親王を皇太子(のちの文徳天皇)とさせることに成功したのです。
これで、嵯峨・仁明・文徳という天皇の直系系統が成立しました。
事件により、名門氏族である伴氏と橘氏は力を弱められ、また藤原氏内部の良房のライバルたちも失脚させられました。
これらは全て権力の確立を狙った藤原良房による陰謀だと考えられています。
866年 応天門の変
大納言・伴善男が左大臣・源信を失脚させようと図って、内裏の朝堂院の正門・応天門に息子の伴中庸に放火させたと断罪された事件です。
伴善男・中庸父子や関係した紀豊城・紀夏井らも流罪となりました。
事件の真相は不明のままでしたが、この事件を処理した太政大臣の藤原良房は、有力氏族たちを排斥することに成功しました。
藤原良房の和歌
このように藤原良房はやや強引に他氏を排斥し、天皇との外戚関係を利用して強い藤原氏の栄華の基礎を作った人物です。
そんな彼の満足を表わす和歌が古今和歌集に残されています。
【染殿の后の御前にて、花瓶に挿された桜の花を見て詠んだ歌】
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年月が経ち、私はすっかり年老いてしまったが、この桜の花(我が娘・染殿の后)を見ていると、何も思い煩うこともない。)
「染殿の后」というのは、文徳天皇の后となった、良房の娘・藤原明子のことです。
彼女は、良房の邸宅・染殿に住んでいたのでそう呼ばれました。
この歌は、自分の娘が皇后となった姿を見て満足感にひたっている父の歌です。
明子は、文徳天皇の皇子を生み、その子は清和天皇となりました。
太政大臣となり、摂政にもなって人臣として最高の権力を得た良房が、何も思い悩むことなどない自分自身の人生を満足して振り返った歌です。
きょうのまとめ
今回は、藤原氏による摂関政治を開始した人物・藤原良房をご紹介しました。
藤原良房とは、
① 嵯峨天皇に支援を受け、天皇の娘を妻にして目覚ましく昇進した権力者
② 官位従一位、太政大臣、人臣最初の摂政となって平安前期の政界トップに君臨した公卿
③ 天皇との外戚関係、政変を利用した他氏排斥で藤原北家全盛の基礎を築いた人物
でした。
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