マッカーサーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

太平洋戦争でアメリカ軍を指揮し、のちに日本の統治にも従事した元帥げんすい

ダグラス・マッカーサー

生涯の多くを戦場ですごした彼には、勇敢なエピソードがたくさん残されています。

さらに日本の民主化に一役買った人物だといわれると、どんな人かいよいよ気になってきますよね。

今回はそんなマッカーサーの生涯から、その人物像を辿っていくこととしましょう。

 

マッカーサーはどんな人?

プロフィール

マッカーサー
出典:Wikipedia

  • 出身地:アメリカ・アーカンソー州リトルロック
  • 生年月日:1880年1月26日
  • 死亡年月日:1964年4月5日(享年84歳)
  • 太平洋戦争を制し、戦後の日本に民主主義国家の基礎を築いた連合国最高司令官。日本の名誉国民・軍人として最高位の元帥の称号をもつ。

 

マッカーサー 年表

年表

西暦(年齢)

1880年(1歳)アーカンソー州リトルロックにて、アーサー・マッカーサー・ジュニアの三男として生まれる。

1896年(16歳)西テキサス士官学校を卒業。

1903年(23歳)アメリカ陸軍士官学校を首席で卒業。

1905年(25歳)父アーサーが駐日アメリカ大使館付け武官となり、その副官として日本に勤務する。

1906年(26歳)第26代大統領セオドア・ルーズベルトの軍事顧問補佐官に任命される。

1907年(27歳)ミルウォーキー第3工兵隊の副官、工兵訓練学校の教官を務める。

1918年(38歳)全米の州兵からなる「レインボー師団」を率いて第一次世界大戦の西部戦線に参戦。15個の勲章を授与される。

1919年(39歳)陸軍士官学校の校長に就任。

1922年(42歳)フィリピン・マニラ軍管区司令官に任命され、フィリピンに赴任。

1925年(45歳)史上最年少となる陸軍少将昇進を果たし、アメリカ本土へ転属となる。

1928年(48歳)オリンピック選手団団長としてアムステルダムオリンピックに参加。

1929年(49歳)在フィリピン・アメリカ陸軍司令官としてフィリピンに再度赴任。部隊の強化に尽力する。

1930年(50歳)最年少で陸軍参謀総長に任命される。

1935年(55歳)1946年に予定されたフィリピン独立に向け、フィリピン軍の軍事顧問に就任する。

1939年(59歳)第二次世界大戦の開戦を受け、アメリカ本土へ異動。連合国遠征最高司令部の最高司令官に就任する。

1941年(61歳)在フィリピン・アメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍が結成され、司令官に就任。同年太平洋戦争が開戦し、指揮を執る。

1942年(62歳)南西太平洋方面最高司令官に任命される。連合軍の指揮を執り、敗戦続きだった戦況を「ニューギニアの戦い」にて覆す。

1944年(64歳)ルーズベルト大統領、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官の反対を押し切り、フィリピン攻略戦を展開。

1945年(65歳)日本がポツダム宣言を受諾すると、マッカーサーは連合国最高司令官に任命され来日。降伏調印式を行い、日本の統治を開始する。

1950年(70歳)ソ連とアメリカが覇権を争っていた朝鮮半島にて、朝鮮戦争が勃発。マッカーサーが指揮を執るが苦戦する。

1951年(71歳)トルーマン大統領との行き違いにより連合国最高司令官を解任され、帰国する。

1952年(72歳)コンピューターメーカーの社長に就任し、国際情勢についての助言などを行う。

1960年(80歳)統治時代の功績を称えられ、日本から「勲一等旭日桐花大綬章」が贈られる。

1961年(81歳)フィリピン政府の独立15年式典に招待される。

1962年(82歳)ウェストポイント陸軍士官学校から最高の賞であるシルバヌスセイヤー賞を贈られる。

1964年(84歳)老衰による肝臓・腎臓の機能不全により死去。国葬が執り行われた。

 

マッカーサーの生涯

1880年、ダグラス・マッカーサーは、アメリカ陸軍の軍人アーサー・マッカーサーの三男として、アーカンソー州リトルロックにて誕生します。

このころはアメリカ西部にてインディアンとの植民地戦争が続いており、父に連れられたマッカーサーも、幼少期の大半を戦地にて過ごすことになりました。

この環境で育ったとあれば、彼が陸軍士官学校を志したのも自然な話だったのでしょうか。

陸軍士官学校時代

1896年にマッカーサーは西テキサス士官学校を卒業し、続いてウェストポイント陸軍士官学校への入学を目指します。

入学には有力政治家の推薦が必要となりましたが、母メアリーが地元の政治家のコネを使ってこれを解決。

1年半の受験勉強の末、マッカーサーはトップの成績で入学することとなります。

メアリーはマッカーサーを特に溺愛しており、学生時代もほとんどの行動を監視していたのだとか。

マッカーサーは卒業時も首席という大変優秀な学生でしたが、母親がいつもついて回っていたことを周囲からはからかわれていたようです。

過保護に育てられた背景と、勇敢な軍人の姿はギャップがあっておもしろいですね。

陸軍入隊後のキャリア

士官学校を卒業したマッカーサーはエリート部署とされていた工兵隊に所属し、フィリピンに赴任。

また1905年には父アーサーが駐日アメリカ大使館付け武官となり、これに同行して日本へも訪れています。

マッカーサーは日露戦争を観戦し、指揮を執った日本の司令官らとも面会しました。

彼らに大いに感銘を受けたとも語っていますが、まさか後に自身がこの国の統治者になるとは思ってもいなかったでしょうね。

帰国後はミルウォーキー地区の工兵隊に所属しますが、実はこの期間、マッカーサーは職務に影響が出るほど恋愛に夢中になり、上官からの信頼を失う失態を冒します。

しかしそこから態度を改善し、訓練学校用のマニュアルを作成するなど、積極的な姿勢を見せて名誉を挽回。

1911年には大尉に昇進するまでになっています。

やっぱり人間一度ぐらい、挫折を経験しておくべきということでしょうか?

第一次世界大戦での活躍

1917年のこと、アメリカの第一次世界大戦への参戦が決まると、マッカーサーはウッドロウ・ウィルソン大統領にヨーロッパへ兵の派遣をすることを提案。

これを採用したウィルソン大統領はマッカーサーを大佐に任命し、全26州の州兵からなる第42師団「レインボー師団」の指揮を命じます。

1918年にフランスに派遣されたレインボー師団は、ドイツ相手に善戦し、マッカーサーは計15個もの勲章を受けました。

戦場では常に前線に立って指揮を執っており、自分以外の兵が全滅する事態に見舞われた際も臆さなかったといいます。

大戦後も

・陸軍士官学校の校長

・アムステルダムオリンピックの選手団団長

・軍政を担う陸軍参謀総長

などなど、異色のキャリアを歩んでいます。

このころあたりから、アメリカにおけるマッカーサーの知名度は相当なものになっていたのではないでしょうか。

太平洋戦争

1935年に陸軍参謀総長を退任すると、マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として赴任することになります。

フィリピンは1946年の独立に向けて国軍を整備する必要があり、マッカーサーにその白羽の矢が立ったのです。

そして1941のこと、日米開戦の雲行きになったこともあり、ルーズベルト大統領の発案で、フィリピンに駐屯しているアメリカ軍とフィリピン軍を合併したアメリカ極東陸軍が結成されます。

ルーズベルト大統領は、日本と戦争になった場合、フィリピンが防衛線として鍵を握ると睨んだわけですね。

マッカーサーはこの極東陸軍の司令官となります。

マッカーサーの失態

本土から支援を受けたフィリピン戦線は盤石に思えました。

しかし、彼はこの体制に慢心したせいで足をすくわれることに…。

太平洋戦争は序盤、日本軍の真珠湾攻撃の勢いでアメリカ側が追い込まれる形となり、マッカーサーは戦線を撤退することになるのです。

籠城戦を強いられたこともあり、「Dugout Doug(籠って出てこないダグラス)」と、不名誉なあだ名を付けられるなど、この敗戦は彼の生涯一番の汚点となりました。

悔しさから生まれた

マッカーサー
I shall return(必ずや私は戻る)

というセリフも有名ですね。

逆転劇へ

「I shall return」の言葉通り、マッカーサーは1942年の「ニューギニアの戦い」において指揮を執ります。

日本軍の脆弱な部分を狙って包囲し、飢餓に追い込む「蛙飛び作戦」を実行。

ここで勝利を収め、フィリピンでの雪辱を晴らすことになります。

その後、フィリピン攻略が日本との早期終戦において優先度が低いと見なされるなど、大統領らとの衝突はあったものの、マッカーサーの作戦はおおむね順調に展開されていきました。

こうして1945年に日本がポツダム宣言を受諾するころには、彼はその名声を回復させ、アメリカ国内の人気は最高潮に。

マッカーサーは、ルーズベルト大統領の後任となったトルーマン大統領とも相容れませんでしたが、こういった流れもあって、敗戦した日本の統治を任されることになるのです。

日本統治時代

連合国最高司令官として来日したマッカーサーは、以下のような政策を行い、日本を統治していきます。

・残存していた日本軍の武装を解除

・太平洋戦争の戦犯を処刑

・報道の規制

・日本国憲法の公布などによる民主化

このうち戦犯の処刑に関しては、マッカーサーが唯一の敗戦を喫したフィリピンの戦いを指揮した本間雅晴などが槍玉に上げられており、しばしば「ただの復讐だ」みたいなこともいわれていますね。

ともあれ、これらの政策によってマッカーサーは日本の軍事力を削ぎ、民主主義国家の基盤を作っていったのです。

結果として日本を新しい時代へ導いたこの政策は評価され、1951年の退任時には、日本におけるマッカーサー人気は相当なものとなっていました。

空港には200万人もの人が見送りに訪れ、名誉国民の称号を贈られるほどですからね。

転機となった朝鮮戦争

日本の統治を順調に進めていたマッカーサーの転機となったのは、1950年に勃発した朝鮮戦争でした。

朝鮮半島は兼ねてからソ連とアメリカが勢力を二分にして治めていました。

しかし1948年にソ連側が支援する朝鮮民主主義共和国、アメリカ側が支援する大韓民国がそれぞれ成立。

その流れで両勢力が緊迫した状態になっていき、戦争に発展するわけです。

この戦争でマッカーサーは韓国側の指揮を執ることになるのですが、中国共産党が北朝鮮の援軍に入るなど、不測の事態に見舞われて苦戦を強いられます。

その際、中国を直接攻撃するか否かでトルーマン大統領と意見がすれ違い、解任される流れとなるのです。

解任後のマッカーサーは?

解任後のマッカーサーは朝鮮戦争に関する公聴会で発言に矛盾が見られるなどがあり、徐々にその人気も影を潜めていきます。

彼は次期大統領の座を狙っていたのですが、ちょっと欲が出すぎてしまったのかもしれませんね。

とはいえその功績を忘れていない人もたくさんいて、母校のウェストポイント陸軍士官学校や、日本から勲章を授与されていたり、フィリピンの独立15年式典に招待されることもありました。

こう見ると、おおむね幸せな晩年だったような感じがします。

84歳を迎え老衰で病床に伏した際も、気丈に振る舞って医師や看護師、家族を元気付けたという逸話が残っていたり。

マッカーサーはその命が尽きるまで、弱音を見せなかったのですね。

 

きょうのまとめ

アメリカ陸軍のトップとして、第一次世界大戦・第二次世界大戦…そして敵国である日本の統治を経験したマッカーサーの生涯は、波乱万丈そのもの。

これだけの責務を果たすのは、相当な精神力が問われたでしょうね…。

晩年の穏やかな日々はある種、解放された気持ちだったのかも…?

最後に今回のまとめです。

① 陸軍士官学校を首席で卒業したマッカーサーは、軍人としてはエリートコースまっしぐら。第一次世界大戦でも多くの武功を上げた。

② 太平洋戦争では一時撤退に追い込まれるも逆転劇を見せ、アメリカ国内での名声を回復させる。

③ 日本統治では日本の軍事力を削減し、日本国憲法の制定などにより民主化を推し進めた。

優秀な軍人であったことはたしかでも、戦争が絡んでくるとあまり良い気持ちはしないもので、正直、マッカーサーは評価の分かれる人物です。

ただ、今の日本を語るうえで、やはり彼が行った政策は欠かせません。

そういった意味で彼の人物像を知っておくことは、日本人としてとても価値のあることではないでしょうか。

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