リンカーンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

アメリカ合衆国第16代大統領として2期に渡って就任した人物、

エイブラハム・リンカーン

南北戦争で北部を勝利に導き、「奴隷解放宣言」により奴隷制度廃止に奔走した彼は、現在でも偉大な大統領の一人として認識されています。

その一方で実は学歴を持っていなかったり、鬱の症状に苦しんだりといった様に、波乱に満ちた人生を送っています。

リンカーンとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は、その生涯を功績と共にご紹介していきます。

 

リンカーンはどんな人?

プロフィール
リンカーン

エイブラハム・リンカーン
出典:Wikipedia

  • 出身地:アメリカ ケンタッキー州
  • 生年月日:1809年2月12日
  • 死亡年月日:1865年4月15日(享年56歳)
  • アメリカ合衆国第16代大統領。南北戦争で北部を主導し、「奴隷解放宣言」を出した。

 

リンカーン 年表

年表

西暦(年齢)

1809年(0歳)アメリカケンタッキー州、ホジュンヴィル郊外の丸太小屋で誕生。

1816年(7歳)インディアナ州南部の町に家族で移住。

1830年(21歳)実家を出てイリノイ州中央部の町、ニューセーラムに移住。

1831年(22歳)イリノイ州の議会議員選挙で立候補するも落選。

1832年(23歳)ブラックホーク戦争に志願し、隊長に就任。

1833年(24歳)ニューセーラムの郵便局で局長に就任し、3年間務める。

1834年(25歳)再びイリノイ州の議会議員選挙に立候補して当選し、8年務める。並行して弁護士の勉強を始める。

1836年(27歳)イリノイ州の弁護士資格を取得。

1837年(28歳)法律事務所、ジョン・トッド・スチュアートに入所。弁護士としての仕事も開始。

1842年(33歳)ケンタッキー州の銀行家の娘、メアリー・トッドと結婚。

1846年(37歳)イリノイ州の連邦下院議員選挙に出馬して当選し、連邦下院議員になる。

1858年(49歳)イリノイ州の共和党大会にて、連邦上院議員の共和党立候補者として選ばれる。奴隷制を批判する立場としてその拡大停止を主張し、当選は逃すも共和党の有力な政治家となった。

1860年(51歳)11月6日、大統領選挙が実施され当選する。

1861年(52歳)3月4日、第16代大統領に就任。4月12日、南北戦争の開戦。

1862年(53歳)9月22日、「奴隷解放予備宣言」を布告。

1863年(54歳)1月1日、「奴隷解放宣言」を布告。

1864年(55歳)11月8日、大統領選挙が行われ、再選。

1865年(56歳)3月4日、2期目の大統領就任。4月14日、ワシントンのフォード劇場で観劇中に狙撃され、翌朝死去。

 

リンカーンの生涯

ここからは早速、リンカーンの生涯について功績と共に辿ってみましょう。

若き日のリンカーン

リンカーンが政治家としての活動を開始したのは、25歳の頃。

イリノイ州の議会議員選挙にホイッグ党員として立候補し、当選。

当時郵便局で局長を務めていた彼は、仕事と並行して弁護士の勉強も始めます。

27歳のときに弁護士資格を取得すると、議会議員を務める傍ら弁護士としての活動も開始し、2足のわらじを履いた生活が始まりました。

そして37歳のときに同州の連邦下院議員選挙に出馬し、見事当選を果たします。

しかしその後は一時政界の中心から遠ざかり、約10年の間、弁護士としての仕事に集中した日々が続きます。

この頃の弁護士としてのリンカーンは、正義感が強く貧困者に対しても真摯な弁護に取り組み、「正直者のエイブ」という愛称で親しまれました。

大統領への道

リンカーンに転機が訪れたのは、彼が50歳を目前に控えた年でした。

弁護士生活を送っていた1850年代、アメリカは北部と南部で奴隷制の拡大に対する対立が過激さを増していました。

当時のリンカーンの意見は、

・従来から続く南部諸州における奴隷制の維持は認める

・しかし北部への拡大には反対

・徐々に奴隷制を廃止の方向へ持っていく

といったものでした。

しかしその情勢は、徐々に奴隷制の拡大派が優勢になっていったのです。

そのことに危機感を抱いたリンカーンは、正義感の強さも相まって再び政界に戻ることを決めます。

47歳のときに共和党に入党すると、49歳で連邦上院議員の立候補者に選ばれ、奴隷制拡大の廃止を主張します。

奴隷制維持論者の民主党代表との選挙戦は、全米に注目されるものとなりました。

このときの選挙結果では当選こそ逃したものの、リンカーンは奴隷制拡大批判派の共和党を代表する有力な政治家として、人々に認識されることになります。

そして51歳のときに迎えた大統領選挙では、民主党代表とは大差をつけて当選を果たしたのです。

そして大統領に

こうして翌年の1861年、52歳でアメリカ合衆国第16代大統領に就任したリンカーン。

しかし南部連合軍の北部要塞への攻撃により、間もなく南北戦争が勃発しました。

開戦当初は劣勢に立たされていた北部でしたが、その後徐々に盛り返していきます。

リンカーンはその間、後の「奴隷解放宣言」の布告に向け、草案を準備していました。

そして1863年の元日に「奴隷解放宣言」を布告。

11月にはゲティスバーグの国立墓地をつくる式典において、「人民の人民による人民のための政治」という文言で有名な演説を行い、アメリカの新たな自由の誕生と民主政治の根本を唱えました。

そして12月、南部の反乱州に対しての「大赦と再建の宣言」を布告し、アメリカの再統一を図ることを示します。

翌1864年、北部の勝利がほぼ確定したこの年に大統領選挙が行われると、圧倒的支持者の数で再選。

翌年3月には56歳で2期目の大統領に就任します。

そして4月9日に南北戦争が終結してわずか5日後、リンカーンはワシントン市内のフォード劇場で観劇中に狙撃され、翌日息を引き取ったのです。

 

リンカーンにまつわるエピソード

ここでは、リンカーンの知られざるエピソードをご紹介します。

独学の人

1809年2月12日、後の大統領エイブラハム・リンカーンは、ケンタッキー州の辺境のさらに郊外にある丸太小屋で誕生します。

7歳のときに一家はインディアナ州へ引っ越しますが、9歳のときに母親が伝染病にかかり死去。

父親には学がなく、貧しい家庭に生まれ育ったリンカーンは、最低限の基礎教育しか受けることができませんでした。

しかし彼が10歳のときに父親が再婚し、この継母となった女性のおかげでリンカーンは学びの楽しさを覚えます。

「お母さん」と呼んで慕った継母は、彼に読書の良さを教え、その影響でリンカーンは少年時代から多くの書物によって知識や教養を身に着けていきました。

後にリンカーンが弁護士となり、政治家を経て大統領になれたのは、この継母の存在が大きなカギとなっていたのです。

知られざる苦悩

独学で最終的には大統領にまで上り詰めたリンカーン。

しかし彼の人生は決して順調ではありませんでした。

26歳のときには深刻なの発作に見舞われ、31歳のときにも再びその症状に苦しめられます。

自殺を考えるほど追い詰められた時期もありました。

さらに、リンカーンは生涯で4人の男児を授かりましたが、そのうち無事に成人を迎えたのは長男だけ

その影響もあり、夫婦仲も良好なものとは言えない状態だったのです

 

きょうのまとめ

今回は、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンについて、その生涯と功績をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、リンカーンとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① アメリカ合衆国第16代大統領として、2期に渡り就任した。

② 奴隷制度拡大廃止に尽力し、「奴隷解放宣言」を布告した。

③ 南北戦争で北部を勝利に導き、アメリカを現在まで続く大国として統一した。

偉大な功績を遺し、現代でも慕われるリンカーン。

しかし彼をよく知る人々によれば、リンカーンはユーモアで人を和ませるセンスと共に、常に憂いを帯びた一抹の悲哀を漂わせていたといいます。

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