江戸時代後期・オランダ商館付の医師として日本にやってきた
シーボルト。
彼は鳴滝塾という私塾を創設し、日本に西洋医学を伝えた第一人者でした。
しかしその反面、シーボルト事件という大騒動を起こしたことでも知られています。
シーボルト事件は当時の日本の国家をも脅かしかねない一大事でした。
日本医学の進歩に貢献したはずの彼が、国家を脅かす…?
これはどういうことなのか…事件の経緯を辿ってみましょう。
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シーボルト事件とは
1828年に起こったシーボルト事件は、出島のオランダ商館付の医師として来日していたシーボルトが、当時国外への持ち出しが禁止されていた日本地図などの機密情報を持ち出そうとした事件です。
シーボルトは1828年10月に日本を発ち、オランダヘ帰る予定でしたが、出航直前になってこの持ち出しが発覚。
地図などの資料を贈った日本人十数人が処分される事態になりました。
もちろんシーボルト自身も拘束、収集品の没収を受けた末、翌1829年に国外追放・再渡航禁止の処分を受けています。
現代の感覚からすると「地図ぐらい…」と思えますが、地図を国外に持ち出すことは、当時からすると敵国に地理的有利を与えるに等しく、国家を脅かしかねない行為でした。
日本は鎖国状態で、貿易していたのはオランダと中国ぐらいでしたから、それだけ外国への警戒心が強かったのですね。
持ち出しが発覚した理由は?
機密情報の持ち出しが発覚した理由は、
「シーボルトが乗っていた「コルネリウス・デ・ハウトマン号」が出航前に台風の被害に遭い、修理のために積み荷を降ろしたこと」
だと長らく思われていました。
しかしこの説は1996年になって覆されることになります。
シーボルト研究を行っていた横浜薬科大学・梶輝行教授が、論文にて
「船に乗っていたのは安定を保つための重りだけで、荷物など乗っていなかった」
という旨を発表したのです。
それどころか船は9月に台風の影響で座礁してから、特に調べられた形跡もないといいます。
ではなぜ、シーボルトが機密情報を持っていることが幕府にバレたのでしょうか?
断定はできませんが、当時幕府の役人をしていた間宮林蔵が関係しているという説が有力です。
林蔵には役人であると同時に探検家でもあり、シーボルトは林蔵が北海道に赴いた際に採取した植物の標本を欲していたとのこと。
あるときシーボルトはその旨を書いた手紙を林蔵に送るのですが、外国人に私的な贈り物をすることは幕府に禁じられているため、林蔵は手紙を開けずに上司に渡したといいます。
ここから、外国人に贈り物をしている者がいるのでは?と幕府がにらみ、十数人の協力者が浮かび上がってきたという説があるのです。
ちなみにシーボルトが出島で拘束されたのは、高橋景保という幕府の天文学者が投獄された際にシーボルトの名が挙がってきたためでした。
この高橋景保と間宮林蔵には確執があったという話もあり、林蔵が景保の罪を密告したのでは?なんて話もあります。
シーボルトはなぜ日本の情報を持ち出そうとしたのか
ところで、どうしてシーボルトは日本の機密情報を国外に持ち出そうとしたのでしょうか。
幕府が危惧していたように、戦争に役立てるため?つまりスパイなの?
…と、考えることもできますが、これは素直に見れば、研究者としての調査の一環であったと取れます。
シーボルトが日本にやってきたのは、彼が医師として邁進していくなかで東洋医学に興味をもったことがきっかけです。
しかしオランダ商館付の医師にでもならないと日本に出入りすることはできないので、本当はドイツ人なのにオランダ人に成りすましたという経緯も…。
もちろんオランダ政府の許可を得てですが。
つまりそれほどに、彼は日本の情報を欲していたわけです。
シーボルトは出島で開いた鳴滝塾にて西洋医学を教えるかたわら、塾生や患者などを通じて、植物を収集したり、気候や地理などを調べたり、日本の自然科学の研究を熱心に行っていました。
そうした実地調査を行っていると、より詳しく知るために日本人が作った文献などのデータも欲しくなってきますよね。
こういったことから、シーボルトは外国人がそれらを所持することが禁止されていたにも関わらず、親しくなった学者などを通じて地図などを集め始めたわけです。
きっと母国に持ち帰って、より詳細に調べようとしていたのではないでしょうか。
しかし…それにしては腑に落ちない点もあります。
持ち出そうとしていた資料には江戸城本丸の詳細図面や、武具の解説図なども含まれていたというのです。
こんなの、自然科学の研究に必要ですかね?
素直に取れば自身の研究のためですが、その実スパイだった…とも十分考えられます。
シーボルトにはなぜそれだけの協力者がいたのか
外国人に私的な贈り物をしてはならない決まりがあったのに、十数人もシーボルトの協力者が出てきたことも興味深いですよね。
これに関していえば、シーボルトの鳴滝塾から日本における西洋医学の先駆けとなる人物が何人も輩出されていることを踏まえれば納得がいきます。
当時、日本の学者のあいだでシーボルトは憧れの的で、交友関係を持ちたいと考えた人がたくさんいたのです。
しかし、そのなかで一番取り沙汰された高橋景保だけは、少し事情が違います。
彼がシーボルトに贈ったのは伊能忠敬が全国を周り測量した『大日本沿海與地全図』、通称「伊能図」の写しです。
これは実地測量に基づく地図としては日本初のもので、幕府が管理するなかでも特に重要な機密情報。
国外に持ち出すなどそれこそ重罪になります。
景保がどうしてそんな重要な地図を贈ったのかというと、シーボルトが出した交換条件が関係していました。
景保は天文学者として地理を調べていたものの、伊能図では北方の樺太近辺のことがはっきりわからず、その近辺の情報を欲していました。
そこに目を付けたシーボルトは
と交渉したのです。
景保も伊能図を外国人に渡すことがどれほどの重罪かわかっていたはずですが、学者としての知識欲には勝てなかったのか…それとも、研究が進めば幕府での地位が上がるという画策があったのでしょうか。
ちなみに彼は投獄された末に獄中死していますから、シーボルトの協力者では一番悲惨な末路を辿ったといえます。
獄中死せずとも、そもそも斬首刑になる予定だったといいますが…。
ほかの人たちに関しては、シーボルトが
と懇願したこともあって、軽い罪で済んだ人も多かったとのこと。
やはり伊能図を渡そうとした景保の罪は特別重かったのですね…。
伊能図の写しは実は持ち出されていた
シーボルト事件は、幕府がシーボルトの収集した物品をすべて没収、彼を国外追放することで解決したかのように見えていました。
しかし2016年になって、驚愕の新事実が発覚します。
なんとドイツに住むシーボルトの子孫の家で、高橋景保がシーボルトに渡した伊能図の写しが発見されたというのです。
シーボルトは収集した物品を幕府に返しはしたのですが、伊能図だけは秘密裏に複製して隠し持っていたのだとか。
あれ…? こうなるといよいよスパイの線が濃くなってきますが…。
それに関して実は、三河国田原藩家老の渡辺崋山が残した『崋山全集』という文献にも、こんな話が載っています。
シーボルトの弟子にあたる医師・高野長英が「医師以外の肩書きはありますか?」と尋ねたところ、
シーボルトはラテン語で「機密調査官」と答えたと。
1858年に日蘭通商条約が締結された翌年、シーボルトは再渡航禁止を解かれ、幕府の外交顧問にもなっています。
彼がスパイだったなら、これってけっこう危ないことだったんじゃないですか…?
いやいや、どうしても伊能図だけは持って帰りたかった…それだけだよね! 信じましょう!
ちなみにシーボルトの子孫の家で発見された伊能図こと『カナ書き伊能特別小図』の写しは、現在は千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に所蔵されている模様です。
きょうのまとめ
シーボルトは多くの日本人から慕われていたように、基本的には日本に対して友好的な人物でした。
しかしシーボルト事件を辿ってみると、何か純粋な研究心だけではないような…怪しい側面も見え隠れしますね。
最後に今回のまとめです。
① シーボルトの機密情報持ち出しが発覚したのは、幕府に密告した者がいたから。幕府役人の間宮林蔵?
② シーボルトは自然科学研究のために地図などの情報を欲していたという話だけど、江戸城本丸の図面や武具の解説図は必要?オランダのスパイなのでは?
③ シーボルトに協力者がたくさんいたのは西洋医学の権威として尊敬されていたから。高橋景保に関しては、樺太近辺の情報と交換条件。
結局母国へと伊能図を持ち帰っていたシーボルトは、やっぱりスパイだったのか…?
とはいえスパイであることが明かされるはずもなく…結局、真相はわからず終いです。
シーボルトの年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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