世の中には、何をやらせても上手にこなすことのできる器用な人がいますね。
その平安貴族究極バージョンが藤原公任という人物です。
上手にこなすどころか全て超一流という彼のマルチタレントぶりを表わす逸話「三船の才(三舟の才)」を中心に公任の活躍をご紹介します。
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才能があり余る貴族・藤原公任
平安時代の貴族の男性が嗜みとしたものに、漢詩、管弦、和歌などがあります。
さて、「三船の才」とは、歴史物語『大鏡』にある逸話のこと。
あらゆるジャンルの芸術をどれも一流にこなす藤原公任のオールマイティさを証明するエピソードだったのです。
「三船の才」の逸話
986年10月に円融上皇の臨席のもと、風雅なイベントが実施されました。
大堰川に漢詩の船、管弦の船、和歌の船の3船を浮かべ、それぞれの道に優れている人を乗せて、技を競い、楽しもうという催しです。
藤原道長は、公任が3つの船のどれに乗るつもりなのかを気にすると、公任は和歌の船に決め、即興で歌を詠みました。
「小倉山 嵐の風の 寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき」
(小倉山から吹きおろす風が冷たいので、紅葉が散りかかって皆が錦の衣を着ているようだ)
その歌は、とても艶やかな秋の風景を見事に詠んだ歌となったのです。
ところが後になって公任は、
「やっぱり漢詩の舟に乗るべきだった。この和歌ほどのレベルのものを漢詩で作っていたら、もっと名声が上がったというのに、残念なことをした。道長殿がどの舟に乗るつもりかと尋ねた時は、自惚れる気持ちをおさえられなかったなあ」
と言ったのだそうです。
何事にも秀でている公任ですが、ハトコである藤原道長には、地位や政治的な立場では適いません。
しかし、その道長にして「(どの分野が得意なのかわからないほど全て一流の)公任はどの船に乗るのか?」と言わしめたことが、公任には嬉しかったのでしょう。
実は、公任は和歌・管弦・漢詩の他に、弓や書も素晴らしい腕前だったのだそうです。
羨ましいほどの多才ぶりですね。
公任が漢詩にこだわった意味
和歌で素晴らしい歌を披露した公任が、「漢詩の舟に乗れば良かった」と後悔したのには理由があります。
彼が活躍した平安中期は、平安初期の遣唐使を介して取り入れた唐風の文化から国風文化へと変わり、ひら仮名を多用する和歌が、男女問わず貴族たちの間で盛んになりました。
しかし、それでもなお貴族階級の男たちがまず教養として学ぶべきものは、漢詩が第一だったのです。
もちろん、紫式部や清少納言のように漢詩に詳しい女性もいましたが、それはごく一部。
公任は、男性として和歌よりステータスの高い漢詩で、トップ中のトップを狙いたかったのでしょう。
公任の真骨頂はやはり和歌
しかし、客観的に見ればやはり公任が絶大なる才能を発揮したのは和歌でした。
中古三十六歌仙の一人であり、代々の勅撰集には100首弱もの彼の歌が選ばれています。
『小倉百人一首』の公任の和歌
数多くの公任の和歌のうち『小倉百人一首』に採用された歌は特に有名です。
「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」
(滝の流れ落ちる音が聞こえなくなってからずいぶん長い年月がたちましたが、すばらしい滝であったという評判は世間に流れ伝わって、今もなお耳にするのです)
これは、公任が藤原道長の伴として一緒に嵯峨天皇の離宮であった嵯峨野の大覚寺を訪れたときの歌。
素晴らしいと言われた大沢池に注ぐ滝は、公任の時代には既に枯れていました。
その枯れた滝のように、滝を称えるこの歌ものちの世に名声を得、公任の名前を残したいという彼の思いが見えるような歌なのです。
公任が和歌の第一人者となったきっかけと実力
公任が若いころから和歌の第一人者となったのは、当時、清原元輔・平兼盛・大中臣能宣ら和歌の大家たちが既に死没しており、中央の歌壇で活躍する人材が少なかったことが背景となりました。
まだ30歳前半の若い公任が、花山上皇の勅撰和歌集『拾遺和歌集』の選者に選ばれたことが彼の名前を挙げるきっかけとなったのです。
公任本人の和歌は最多の15首採用されています。
公任の和歌の第一人者エピソード
高名な歌人として、そして歌壇の指導者としての公任の影響力がわかるエピソードをご紹介しましょう。
【清少納言は手を震わせた】
公任が活躍していた頃、宮中で活躍して評判女房だった清少納言に、公任が和歌の下の句だけの手紙を送りました。
「少し春ある 心地こそすれ」
(少し春の気配が感じられるよ)
これは公任から清少納言へのチャレンジ。
彼女は、上の句を付けて返さなければなりません。
「空寒み 花にまがへて 散る雪に」
(空が寒いので、まるで花に見間違えるように散って降る雪のために)
彼女は震える手でそう書き付けて返しました。
公任とは、さすがの清少納言も緊張で手も震えるほどの相手だったのですね。
【藤原長能は命を落とした】
中古三十六歌仙の1人に選ばれるほどの腕前の藤原長能は、花山院が開催した歌会で「三月尽」のお題で歌を詠みました。
「心憂き 年にもあるかな 二十日あまり 九日といふに 春の暮れぬる」
(やるせない年だなあ。二十九日というのに、春が終わってしまうとは)
その時の年の3月が小の月だったので、そのように詠みましたが、同席の藤原公任が、「春は3月の29日間だけのものではない」と批判します。
1月や2月は春ではないのか、と咎めたのです。
和歌の権威・公任のひと言は、痛烈であり、長能は落胆して無言のまま歌会を退出し、そのまま重病となって命を落とします。
のちに自分のひと言によって彼が亡くなったことを知った公任は、
「うっかり不用意な事を言ってしまった」
と後々まで悔やみ続けたそうです。
【藤原範永は家宝にした】
藤原範永も公任と同時期に活躍した貴族で、歌人。
彼は公任に歌を褒められ、嬉しさのあまり、褒められたことが記された紙を錦の袋の中にいれて家宝にしたと言われています。
ちなみにその絶賛された歌とは
「みる人も なき山里の 秋の夜は 月の光も さびしかりけり」
です。
きょうのまとめ
平安中期の公卿・藤原公任の「三船の才」のエピソードを交えて、多才な彼が特に優れた和歌の実力や影響力についてご紹介しました。
簡単なまとめ
① 藤原公任は漢詩・管弦・和歌のどれをも一流にこなすマルチタレント貴族だった
② 公任は和歌に最も優れた才能を発揮した
③ 和歌の第一人者としての公任は、その批評や言動が他の歌人たちに大きく影響を及ぼした
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