『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『幼年時代』など、
現在でも高く評価される著作を多く遺したロシアを代表する文豪、
レフ・トルストイ。
小説家や思想家として成功を収めた彼は、その一方で悩み多き人生を歩みました。
トルストイとは一体どんな人物だったのでしょうか。
今回はその波乱に満ちた生涯に迫ります。
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トルストイはどんな人?
- 出身地:ロシア帝国 ヤースナヤ・ポリャーナ
- 生年月日:1828年
- 死亡年月日:1910年11月20日(享年82歳)
- 19世紀に活躍したロシアの小説家、思想家。
トルストイ 年表
西暦(年齢)
1828年(0歳)ロシアのトゥーラ郊外の町、ヤースナヤ・ポリャーナで伯爵家の四男として誕生。
1844年(16歳)カザン大学東洋学科に入学するも、落第。
1845年(17歳)同大学の法学部に転部。
1847年(19歳)同大学を中退。その後、故郷で農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すも失敗に終わる。その後、モスクワやペテルブルクなどを転々とし、放浪生活を送る。
1852年(24歳)軍に志願し、コーカサスでの砲兵隊勤務中に『幼年時代』を発表。
1854年(26歳)再志願し、クリミア軍に転属。『少年時代』を発表。翌年、ペテルブルクに帰還。
1856年(28歳)故郷、ヤースナヤ・ポリャーナに戻る。翌年、ヨーロッパ旅行を行い『青年時代』を執筆。
1860年(32歳)この頃から教育活動に熱心に取り組み始める。
1861年(33歳)農奴調停委員に選出され翌年に辞任する。
1862年(34歳)16歳年下のソーフィア・アンドレーエブナとの結婚。
1869年(41歳)『戦争と平和』を発表。
1877年(49歳)『アンナ・カレーニナ』を発表。
1885年(57歳)民話『イワンの馬鹿』を発表。翌年、『イワン・イリイーチの死』を発表。
1887年(59歳)『人生論』を発表。
1891年(63歳)この頃から飢餓救済活動に熱心に取り組み始める。
1897年(69歳)『芸術とは何か』を発表。
1899年(71歳)『復活』を発表。
1900年(72歳)アカデミーの会員に選出される。
1901年(73歳)ギリシア正教会から破門される。
1910年(82歳)11月7日、肺炎のため死去。
トルストイの生涯
ここからは早速、トルストイの生涯を功績と共にご紹介していきます。
試行錯誤の青年時代
1828年8月28日、ロシアのトゥーラ郊外の町で、伯爵家の四男として誕生したトルストイ。
幼い頃に立て続けに両親を亡くし、親戚の元を転々とする少年時代を過ごします。
しかし裕福な一族だったということもあり、特に不自由することなく成長しました。
16歳を迎える頃、外交官を志しカザン大学に入学しますが、華やかな社交の場にすっかり魅了され、勉強不足で落第します。
その後は同大学の法学部に転部するも結局2年後に退学。
故郷に戻ったトルストイは地主として広大な土地を相続し、19歳にして農地経営に乗り出します。
地主としてのトルストイは、農民の生活を改善するための農地改革に取り組みましたが、上手くいかず早々に挫折します。
その後はモスクワやペテルブルクなどの地を転々とします。
自分の可能性を探しながら放蕩生活を送りますが、何をやっても上手くいかず、この頃のトルストイは悶々とした数年間を過ごしていました。
転機をもたらした戦争体験
そんな彼に転機が訪れたのは24歳のときでした。
前年に志願して軍の砲兵隊に所属し、コーカサス戦争に参加していたトルストイは、この地で『幼年時代』を執筆し、それが雑誌編集者の目に留まったのです。
そしてこの作品が雑誌で発表されると、世間でも注目を集めました。
その後、彼は26歳までコーカサス戦争に従軍し、その傍らで『少年時代』も発表しています。
一時は激戦の中に身を置く時もありましたが、翌年無事にペテルブルクに帰還しています。
このときの体験はトルストイのその後の人生に大きな影響を与え、様々な体験記をもとにした著作の中に反映されることになりました。
有名なトルストイの非暴力主義も、この戦争体験が強く関係しているのです。
積極的な改革
28歳で故郷ヤースナヤ・ポリャーナに戻ったトルストイは、次第に教育問題に関心を抱くようになり、視察を兼ねた数年間のヨーロッパ旅行を行います。
ちなみにこの旅行中には『青年時代』を執筆していました。
帰国後、彼は農民の子供たちの教育に力を入れるため、自身の領地に学校を設立。
他にも、農民と地主との関係を取り持つための農奴調停委員に選出されますが、地主側の反発に遭い翌年辞任しています。
さらに独自の農奴解放を試みたり、強制ではなく子供たちの自主性を重んじる教育方針など、新しい試みに取り組むトルストイは危険視され、設立した学校は閉鎖を余儀なくされました。
文豪からストイックな思想家へ
40代以降のトルストイは、代表作『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』など数々の大作を世に送り出し、文豪としての確かな地位を築くことになりました。
しかしこの頃から親族の度重なる死によって、うつ病のような症状に悩まされることになります。
自殺を考えるほど苦しんだ末に、彼は文豪としての地位を捨て、独自の宗教思想や哲学を広める活動を始めたのです。
権力とは程遠い民衆の質素で素朴な生活に惹かれ、原始キリスト教のような独自の宗教観、倫理観を布教する活動を行うようになりました。
実際に民衆を苦しめる政府に対し非難する論文を提出したり、政府と癒着していたロシア正教会を非難するなどの反政府運動を行っています。
それに伴い、以降の執筆活動では教訓や道徳に関する作品が多くなります。
『人生論』、『イワン・イリイチの死』などは、トルストイ自身の考えや体験が色濃く反映された作品たちです。
晩年に発表した『復活』では、政府や社会そして宗教の堕落を痛烈に批判し、これによって彼はロシア正教会に破門されています。
トルストイにまつわるエピソード
ここで一つ、トルストイにまつわる何とも哀しいエピソードをご紹介します。
トルストイは34歳のとき、18歳だったソーフィア・アンドレーエブナという女性と結婚し、12人もの子宝に恵まれます。
穏やかで幸せな結婚生活の中、自らを文豪の地位に押し上げることになる傑作を書き上げたトルストイ。
しかしその幸せな家庭も、彼がうつ症状に悩まされる頃になると、徐々に暗い影に包まれていくことになりました。
権力や堕落した社会に嫌気がさした彼は、次第に自身の貴族としての生活にさえ耐えられなくなります。
自身の生活を質素にし、農作業に従事するだけならまだよかったのですが、その行動は徐々に家族にも影響を与えるようになります。
著作物の印税や地主としての地代による収入を拒否しようとし、夫婦間の中にも亀裂が走るようになったのです。
トルストイとしては、自身の思想に忠実に生きようとしたのです。
しかし12人の子供を養わなければならない父親としての立場を放棄した彼を、妻は気が気ではありませんでした。
その後もトルストイの考えが変わることはなく、彼は何度か家出を図ります。
それを知った妻が自殺を図ったという知らせを聞き、慌てて家に戻ろうとした列車の中で肺炎を起こし死去したのです。
きょうのまとめ
今回は、ロシアの文豪レフ・トルストイの生涯を
功績と共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、トルストイとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀に活躍したロシアの文豪、思想家。
② 代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などがある。
③ 晩年は思想家として反政府活動を行い、道徳や教訓を含む作品を遺した。
人生にまじめに向き合うあまり周囲や家族とも仲違いし、
真冬の三等車の中で哀しい最期を迎えたトルストイ。
しかし波乱に満ちたその人生は、
後の世を生きる人々に大きな影響を与えています。
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