主君の浅野内匠頭の仇を討つために、吉良上野介の屋敷に討ち入った
赤穂浪士たち。
吉良の首を挙げたあと、自首した全員が切腹となりました。
英雄と言われた浪士メンバーには、どんな人たちがいたのでしょう。
また、彼らの子孫のその後はどうなったのでしょうか。
今回は、討ち入りで活躍した有名浪士たちとその子孫に関わるお話しです。
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赤穂浪士について知るなら覚えておきたい有名メンバーたち
47名全員を覚えるのはなかなか大変ですが、幾人か知っておくと元禄赤穂事件の経緯をより理解しやすくなります。
ここでは有名浪士の簡単プロフィールをご紹介しましょう。
赤穂浪士 中枢メンバー
元赤穂藩の筆頭家老で、赤穂浪士のリーダー。
元々は、赤穂藩の御家再興を目指していたが、再興の望みが絶たれ、討ち入りを決定・指揮した。
当日は、内蔵助が表門の大将となり、吉良上野介を討ち果たしたのちには、逃亡せず浪士全ての身柄を幕府に委ねた。
享年45。
大石内蔵助の嫡男。
討ち入りメンバーの最年少16歳だったが、裏門隊の大将を務めた。
赤穂浪士の事実上の副頭領。
裏門隊の副将だった。
享年64。
大石内蔵助の当初の「御家再興運動」を補佐していたが、途中仇討ちの急進派に転向。
討ち入りでは表門に属し、大石内蔵助の司令を助けた。
享年56。
浅野内匠頭の側で幼い時から仕えた同年齢の寵臣であり、大変優遇された。
切腹直前の内匠頭にも会い、討ち入りの際には表門隊に属して戦った。
享年37。
赤穂浪士 個性派メンバー
浪人時代、25歳で叔父・甥の契りをかわしていた人物の高田馬場での決闘に助太刀して名を上げた剣客。
それを見込まれ、赤穂藩士・堀部弥兵衛の婿養子となって浅野家に仕えた。
吉良への仇討ちを主張した中心人物の一人であり、討ち入りでも奮戦した。
享年34。
最高齢の77歳(享年)で討ち入りに参加。
高田馬場の決闘で名を馳せた堀部安兵衛は、そんな彼の要望で縁組みされた弥兵衛の養子である。
親子で討ち入り参加した。
もともと百石取りの普請奉行。
藩主の浅野内匠頭の怒りを買ったために、主君が刃傷事件を起こした時には、浪人中だった。
しかし、事件後に大石内蔵助に許されて討ち入りに参加。
戦闘では最も活躍し、刀がささらのようになるほどだったという。
享年34。
時に、48番目の義士とも呼ばれる。
実は討ち入りに参加していないが、出来ることなら討ち入りさせたかった人物ナンバーワン。
彼が、主君の江戸城での刃傷事件を早駕籠で江戸から赤穂へと最初に伝えた。
途中、偶然母親の葬列に出くわしても止まらず赤穂を目指し、8日の道のりをわずか4日で到着。
討ち入りメンバーになったが、そのことを知らない父親が、吉良家に繋がる他家へ仕官する話しの内諾をもらってしまった。
仇討ち計画を口外できず、仲間への義理と父親への孝行との板挟みに苦しんだ三平は、自宅にて一人で切腹した。
享年28。
赤穂浪士 冷静沈着メンバー
大石内蔵助の右腕として活躍した人物。
改易が決まった赤穂城の明け渡しや、討ち入りまでの間の大石内蔵助の補佐を務める。
討ち入りの際、隣家の者が騒いだため、浅野家家臣であることを告げ、静観することを頼んだという。
享年61。
平安時代から続く名門の出である。俳人としても知られる風流の人。
吉良家出入りの茶人の門弟となり、12月14日に吉良邸で茶会があることを突き止めた。
この情報により吉良の在宅が確認され、その日が討ち入り決行の日となった。
当日は表門隊で活躍。
享年32。
浪士たちの子孫はいるの?
子孫は残っています。
赤穂事件のあと、討ち入りに関わった浪士たちの家族全てが処罰の対象になったわけではありません。
浪士の子孫
処罰を受けて流刑になったのは浪士の息子たちのうち、15歳以上だった者だけです。
妻、女子、出家している男子は免除されました。
流刑先の伊豆大島へ渡った男子は4人。
うち間瀬定八は流刑地で病死しましたが、
・中村中三郎
・村松政右衛門
の3名は1706年に赦免され、本土に戻ってきているのです。
処分に遭った者でさえ、のちには自由の身になっているわけですから、それ以外の親族の子孫は、現在も全国にいらっしゃいます。
財団法人中央義士会などが運営され、赤穂事件の研究者を含め、親族の子孫の方々による学術的にも評価される史料文献の発行や、赤穂浪士たちの法要などの活動が行われています。
浅野家や大石家はどうなった?
浅野内匠頭の実弟であり、養子でもあった浅野大学は、広島藩差し置き処分が1709年には赦免され、1710年には安房国に新知500石を与えられ、旗本として復帰しました。
大石内蔵助の3男・大石大三郎は、大石家を継ぎました。
1713年には広島藩の浅野安芸守吉長、つまり浅野本家に召し抱えられました。
その子孫の方が現在も奈良にいらっしゃるそうです。
新選組に赤穂浪士メンバー子孫が殺された!
赤穂浪士の中心メンバーの一人、大高源五。
彼の子孫で播磨国の林田藩士・大高又次郎は幕末の尊皇攘夷派志士として活躍しました。
1858年に脱藩して京都で尊王攘夷活動を開始。
萩に赴き、吉田松陰とも顔を合わせたことがあります。
尊王の志士であった近江出身の古高俊太郎に協力して活動しましたが、1864年の池田屋事件で、新選組によって討たれています。
一度は池田屋からの脱出に成功した弟の忠兵衛も、のちに捕縛され獄死。
赤穂浪士の子孫がこんな有名な事件で新選組とかち合っていたなんて!
きょうのまとめ
今回は、「元禄赤穂事件」で活躍した赤穂浪士の主要メンバーと、浪士たちの子孫についてご紹介いたしました。
簡単なまとめ
① 大石内蔵助以外の赤穂浪士にもさまざまな特技・個性を持つメンバーが揃っていた
② 浪士の遺族たちの子孫は現代にまで全国に広がり、赤穂浪士についての研究や活動を行う組織も存在する
③ 赤穂事件は悲劇で終わったが、浅野家、大石家などはのちに武家として復活している
④ 大高源五の子孫は、幕末の池田屋事件で新選組と敵対した尊王攘夷の志士だった
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