北里柴三郎の子孫や彼を知る人、人、そして人

 

北里柴三郎きたさとしばさぶろうは昭和6年まで生きており、現代から見てそう遠い時代の人物ではありません。

彼の子孫は現代に続き、活躍されています。

また、日本が誇る偉大な細菌学者である彼の交友範囲は広く、多くの人々との交流が彼の成功にも繋がっています。

ここでは、北里の家族子孫から恩人恩師についてご紹介しましょう。

 

北里柴三郎の家族と子孫たち

北里柴三郎

北里柴三郎
出典:Wikipedia

家族構成

北里の妻・とらは第6代日本銀行総裁を務めた松尾臣善まつおしげよしの二女でした。

2人の間には6人の子供がありました。

長男:俊太郎(法学士)

次男:善次郎(東京大学理学部卒業 理学博士取得)

三男:良四郎(工学士 実業家)

長女:安子(学習院女学部卒業 渡辺銕蔵てつぞう(法学博士)の妻)

次女:美代(千葉蓁一(東京府人大使館三等書記官)の妻)

三女:寿恵子(石田二郎の妻)

婚外子たち

北里は女性には奔放で、庶子もありました。

妾・柴崎ナカの子:文太郎、武次郎(生物学者)

妾・三村こおの子:トミ、陽子、正十郎

孫は現在も

北里柴三郎の・北里裟袈男さかおは帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)の大株主であり、常務取締役、弥生無尽会社顧問。

妻は柴三郎の妻の妹です。

のいくは、神官の蔵原惟暁くらはらこれあきの妻となり、息子は詩人の蔵原伸二郎です。

別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭これひろの妻となりました。

2人の間に生まれた息子は、評論家の蔵原惟人これひとです。

柴三郎のとしては、明治製菓の会長を務め、最高顧問となった北里一郎氏、熊本県議会議長を務めた北里達之助氏がいらっしゃいます。

 

人、人、人。人脈が北里の成功を導いた

人に助けられ、理解され、それに対し恩返しする・・・。

家族や子孫のみならず、北里柴三郎は国境に関わらず多くの人と繋がり、そこから彼の功績が生まれました。

恩師・恩人

【ロベルト・コッホ】(1843-1910)

ドイツの世界的な細菌学者で、北里の恩師。

北里は大きな期待をよせられており、彼の留学期限が切れた時にも、コッホは私費を投じてでも彼に留まることを勧めたほど。

1908年に来日し、明治天皇、森鴎外、北里などが国家的歓待をしました。

鎌倉にコッホ碑、北里大学白金キャンパス敷地内にコッホ・北里神社などがあります。

【福沢諭吉】(1835-1901)

1892年にドイツ留学から帰国した北里は、破傷風菌の血清療法の開発という、世界的な偉業を達成したにもかかわらず不遇でした。

福沢諭吉は、大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)や結核専門病院である「土筆ヶ丘つくしがおか養生園」を建て、北里をサポートしたのです。

北里は、その恩を福沢の死後も忘れませんでした。

福沢の創設した慶應義塾の医学科新設に尽力し、1917年に初代医学科長に就任。

終生無給で慶應義塾医学部の発展のために働きました。

森村市左衛門もりむらいちざえもん(1839-1919)

TOTO、INAX、日本碍子などの創始者である森村市左衛門は、中津藩に出入りした関係で、藩士だった福澤諭吉と知り合いました。

福沢の求めに応じて、北里の私立伝染病研究所に多額の寄付をし、研究設備や機器の購入代金を寄付した人物です。

【後藤新平】(1857-1929)

医師であり、台湾総督府民政長官や満州鉄道初代総裁、そして内務大臣、外務大臣などを務めました。

内務省では北里よりも数ヶ月前に入省した先輩。

年は北里より4歳若く、待遇も月報も北里より上だったので、それが不満の北里は、彼とは犬猿の仲でした。

後藤は、西洋医学を本格的に学ばないまま医者となったことに劣等感があり、自費でドイツに留学。

そのときに、コッホより北里に師事するように言われました。

内務省時代の先輩・後輩の関係を忘れ、北里の元で学ぶことを望んだ後藤は、それをきっかけに北里と終生の友となりました。

徳富蘇峰とくとみそほう(1863-1957)

北里と同郷の文学者で、手紙魔。

交友関係がとても広い人物でした。

北里とも書簡のやり取りをしていす。

郷土にある「北里柴三郎記念館」の胸像の文字は徳富によるものです。

高峰譲吉たかみねじょうきち(1854-1922)

アドレナリンの発見者で、北里は高峯よりも1歳年上。

2人が知り合ったきっかけは不明ですが、手紙で情報の交換を行っていたようです。

1904年にセントルイス万博の視察、そしてパーク・デイビス社を訪問していた2人と塩原又策(三共株式会社創業者)の3人が、ミシガン湖上のヨットでくつろぐ姿が写真に残っています。

【ルイ・パスツール】(1822-1895)

ワクチンの予防接種方法を開発した、フランスの生化学者・細菌学者です。

北里は1892年にドイツ留学の帰国途上、パスツール研究所に立ち寄って、彼に面会しています。

北里の後進たち

野口英世のぐちひでよ(1876-1928)

黄熱病や梅毒の研究で知られる彼が、伝染病研究所に入所したのが1898年。

非常に優秀で、北里は野口を助手補として採用しました。

彼が研究所の貴重な蔵書を紛失した時にはひどく叱責したそうですが・・・。

ペスト患者を発見し、ペスト菌を確認して病原菌の蔓延を防ぐなどした野口。

彼がアメリカ留学を希望した際、北里は知友5名宛ての紹介状を書き、応援しました。

のちに北里が男爵位を賜った時の野口からの祝いの書簡が残っています。

志賀潔しがきよし(1871-1957)

赤痢菌を発見した人物です。

東大卒業後、伝染病研究所に入所。

すぐに北里から直接研究の手ほどきをうけ、赤痢の病原体調査を指示されました。

志賀は研究所の片隅に自分の寝床を作って研究に没頭したそうです。

後年、志賀は学術誌への寄稿文の中で、自分の研究生活が非常に幸運だったことの一つは、北里柴三郎からの直接指導を得られたことだと述べています。

 

きょうのまとめ

今回は、北里柴三郎の家族や子孫、そして彼に関わった人々についてご紹介しました。

北里柴三郎は、

① 子供たちに恵まれ、現代に続く子孫もある

② 国境を越えた幅広い交流をもち、彼らとの出会いが彼の功績につながった

③ 伝染病研究所に入所してきた後輩たちを優秀な研究者になるよう導いた

北里柴三郎の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku