幕末から明治時代にかけて活躍した山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称された一人です。
武芸に優れ、筋の通った生き方をした鉄舟は、含蓄のある名言を多く残しています。
それらを紐解きながら、鉄舟の姿に迫っていきましょう。
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彼の生き方がわかる山岡鉄舟の名言
身長188cm、体重105kgという恵まれた体格に加え、武芸を重んじる家に育った鉄舟は、剣術もそしてそれ以外の武術にも長けていました。
さらに彼は、若い頃より自分の生きる「道」について深く考えていたようです。
江戸無血開城を導いた鉄舟の人生訓「修身二十則」
「修身二十則」とは、鉄舟が15歳のときに自分を律するために作った自分への決まりごとです。
嘘はダメ、人からの恩を忘れてはダメ、といった人としての基本的ないましめだけでなく、鉄舟らしい考えにあふれた言葉が残されています。
その一つをご紹介する前に、鉄舟の功績について説明しましょう。
西郷隆盛と勝海舟の会談によって決着したことが知られる1868年の江戸無血開城についてです。
無血開城は、勝海舟のおかげで江戸が戦火から守られたという、勝の手柄話として多くの人に知られています。
しかし、実は勝が西郷と会談する前に、鉄舟こそがその勝の功績の下地を作っていました。
彼は、殺されるかもしれない危険をおかし、駿府にひしめく新政府軍の兵たちを掻き分け、西郷に会いに行って基本的な合意内容を話し合っていたのです。
主君である将軍の立ち場を守りつつ、無血開城への下地を作ったのは幕臣だった鉄舟の功績でした。
しかし、西郷と勝の会談後、江戸無血開城の功労者は勝だけとなっています。
鉄舟が勝との功績争いを避けて、報告書を提出しなかったことが原因だと言われています。
命を賭して突破口を開いた鉄舟はそれでよかったのでしょうか?
しかし、鉄舟の「修身二十則」の20番目になる最後の言葉を知れば、彼の考えが理解できるかもしれません。
西郷隆盛は、
と鉄舟のことを評しています。
山岡鉄舟の実力と行動力を目の当たりにした西郷にはそれがよくわかっていたのです。
鉄舟が子孫に残すものとは・・・
自分の生涯をかけて、人は何を子孫に残してやれるでしょうか。
鉄舟はこう言いました。
子孫に大金を残してやっても、使えばなくなってしまいます。
書物を沢山残してやっても、読まなければ意味はありません。
人に知れない密やかな善行こそがのちのちの子孫のためになる、という意味です。
何も言わず、自分が信じる良い行いをし続けること、それが鉄舟の生き方なのでした。
最もよく知られた鉄舟の歌
多くの名言を残した山岡鉄舟ですが、この歌がおそらく最も世に知られたものです。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」
旧幕臣・山岡鉄舟が、明治になって宮中に仕えていた頃にこの歌を詠みました。
鉄舟自身は無私無欲の生き方を貫いた人です。
もともと徳川家に仕える身だった彼が、西郷隆盛から「是非とも」と頼まれ、明治天皇の侍従となりました。
鉄舟が自ら望んだ宮仕えではなかったとはいえ、その身の振り方について人から陰口を叩かれることもありました。
この歌は、ただひたすらに職務に励んだ鉄舟が、容赦ない誹謗中傷にさらされた時、彼の心のうちを詠ったものです。
人間・山岡鉄舟の清廉さとその誇りが現われています。
鉄舟辞世の句と死
山岡鉄舟は胃がんで亡くなりました。
当時は手術もなく、胃がんは死を待つだけの病でした。
しかも、激痛を伴ったのです。
「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」
(胃の疼痛のせいで夜もろく眠ることができず、気が付けばカラスの声がする夜明けまで苦しんでいた)
ストレートすぎて、趣のない句だと笑いますか?
激痛の中で作った句です。
彼は自分の死を悟っていました。
ろくに治療もできない末期の胃がん。
胃に穴があき、漏れた胃液が他の臓器を溶かすため、地獄のような苦しみだったのです。
それでも、山岡鉄舟の死に際は「見事」のひと言です。
勝海舟が見舞いに来ると、痛みをこらえてきちんと座した鉄舟。
剣術の弟子たちが心配して集まると、気の乗らない彼らを無理矢理いつもと同じ時刻に稽古させました。
子供は学校に行かせ、夫人にもいつもと同じように琴の練習をさせたそうです。
鉄舟が行っていた禅の弟子に、当時ナンバーワンの落語家・三遊亭圓朝がいました。
鉄舟に心酔していた圓朝が見舞いに来ると、鉄舟は彼に落語をやれと命じたそうです。
鉄舟はそんなことを言うのです。
ボロボロ泣きながら演じる圓朝。
鉄舟は寝具にもたれたままそれを聞いて朝を迎えます。
最後に皇居に向かって結跏趺坐(かかとを反対の脚の太ももに乗せるようにして組んだ、仏教やヨガの瞑想の時の座法)した鉄舟は、夫人と子供に囲まれながら絶命したということです。
きょうのまとめ
今回は、山岡鉄舟の名言とそれにまつわる話を通して、彼の生き方についてご紹介しました。
山岡鉄舟は、
① 若い頃から自分の生き方を言葉にして自分を律していた
② 彼の言葉通り、努力が認められなくても誤解をされても誇りを持った生き方をした
③ 想像を絶する苦しみの中で辞世の句を残し、自分の死を高潔に迎えた
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(自分の善行を人に誇るのではなく、自分の心に恥じないように行動すべきである)