明治・大正時代に活躍した森鴎外は、
国語の教科書でもよく取り上げられるように、作家としての才能はあの夏目漱石と並ぶと称されるほど。
そして医師としても陸軍軍医として総監まで上り詰めた、超エリートの経歴があります。
理系と文系の二分野を極め、特に学問に突出した人物だといえますが、
そんなちょっとお堅いイメージとはまた違った一面も鴎外は持ち合わせていました。
現代では子供に「キラキラネーム」と呼ばれる変わった名前を付ける親が増え、しばしば社会問題として扱われる場面があります。
何を隠そう、そのキラキラネームの元祖が鴎外の子供たちだというのです。
彼のような学問に秀でた人物が子供にキラキラネームを付けたことには、とある願いが込められていました。
そして子孫たちは、その願いに応えるかのように、各分野で活躍する人物になっていくのです。
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鴎外が子どもたちにキラキラネームを付けた理由は?
1882年のこと、東京大学医学部を卒業した鴎外は軍医本部に配属されます。
プロイセン王国(現在のドイツ)の陸軍衛生制度の調査を任されると、わずか1年足らずで文献として完成させる功績を残します。
これをきっかけに、1883年からさらなる調査のため、医学の最先端を担うドイツへの留学を命じられたのです。
ここから4年間、鴎外はドイツで本場の医学を学ぶのですが、その際にネックとなったのが自分の名前でした。
彼は本名を「森林太郎」といいますが、西洋人からするとこれは非常に発音しにくい名前で、コミュニケーションにつまずく場面がしばしばあったのです。
鴎外はその経験から、子供たちが同じ思いをしないようにと、それぞれに西洋人でも発音しやすい名前を付けたのでした。
つまり彼が付けた珍しい名前には、子供たちがそれぞれ、
という願いが込められていたのです。
子孫の活躍
鴎外の願いを汲み取るかのように、鴎外の子供、子孫は医学界、文学界で活躍する存在となっていきます。
医学界、文学界で活躍した子供たち
長男の於菟は日本が統治していた時代の台湾にあった、台北帝国大学医学部の教授などを務めた医師、名前は西洋人によくある「オットー」から取ったものでした。
また長女の茉莉、次女の杏奴、三男の類はそれぞれ作家として活躍し、中でも茉莉の書いたエッセイ『父の帽子』は国語の教科書にも載るほど優れた作品とされています。
名前の由来はそれぞれ「マリー」、「アンヌ」、「ルイス」でした。
次男の不律は幼くして亡くなってしまいましたが、彼もまた「フリッツ」という、西洋人由来の名前です。
そして子供たちの経歴を見ると、それぞれ作家や医師という、父の背中を追うような道を辿っていることがわかります。
鴎外は名前に込められた願いからもわかるように、非常に子煩悩…
いってしまえば親バカでした。
茉莉や杏奴は作品の中でも鴎外のことを語っているように、子供たちからも愛され、尊敬される父親だったのです。
きっとその誰もが「父のようになりたい」と、それぞれの道を志していったのではないでしょうか。
現代でも活躍する鴎外の子孫
現代で活躍する鴎外の子孫で特に著名な人物といえば、埼玉県新座市の堀ノ内病院にて医師を務める小堀鷗一郎さんでしょう。
小堀さんは2019年現在、81歳にして、在宅療養を望む患者の訪問診療の分野を中心に精力的に活動しています。
自身も高齢にかかわらず現場に立ち続ける姿勢にまず驚かされますが、小堀さんが注目される理由は何よりその経歴からです。
元はといえば、小堀さんは国立国際医療センターの院長を務めたほどの名医でした。
そんな彼がなぜその歳になって、いわゆる町医者をしているのかというと、院長として橋本龍太郎元総理の手術に立ち会ったことがきっかけだったといいます。
院長になった小堀さんのメインの仕事は、治療ではなく病院の経営になっていました。
しかし元総理の手術には立場上立ち会うことになり、再び現場の空気に触れたことで、「また医師として現場に戻りたい」と思うようになったとのこと。
そして定年を迎えてから、町医者として堀ノ内病院に勤務することになるのです。
外科医として数々の手術をこなしてきた小堀さんですが、訪問医にはそれとは異なった、より患者のプライベートに踏み込む側面があると語っています。
患者の最後の望みとして、一緒にお酒を飲みかわす、最後にタバコを一本吸いたいという患者が自販機まで自力でタバコを買いに行けるよう、サポートするなどの経験を通し、外科医の時代には考えもしなかった発見がまだまだあるとのこと。
生涯医師として現場に立ち続けようとすることもそうですが、81歳になっても学びの気持ちを忘れないその姿勢も、彼がたびたびメディアに注目される理由ではないでしょうか。
きょうのまとめ
一見キラキラネームとも取れる森鴎外の子供たちの名前には、各分野で活躍する人物に育ってほしいという親としての願いが込められていました。
そしてその願いは今でも、孫の代まで着々と受け継がれています。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。
① 森鴎外が子供に珍しい名前を付けたのは、海外でも活躍する人物に育ってほしいという願いから
② 鴎外の子供たちは父の背中を追うように、医師や作家の分野でそれぞれ名を上げていった
③ 孫の小堀鷗一郎さんは国立国際医療センターの院長も務めた名医。現在も訪問医として現場に立ち続けている
「この親にしてこの子あり」という言葉もありますが、鴎外が子供たちに託していた願いを思うと、その後の子孫の活躍には心温まるものを感じます。
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