江戸時代の終わりに誕生した津田梅子。
当時では非常に珍しい、アメリカ留学を経験した梅子は、日本女子教育の先駆けとして活躍しました。
身を以て日本と海外との女子教育の違いを知った彼女は、そのスピーチや手紙の中で多くの名言を残しています。
津田塾大学を創設した女性、2024年の紙幣改定に伴い新しい五千円札の顔として起用された梅子の言葉をご紹介しましょう。
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時と共に津田梅子の紡いだ名言
一度目のアメリカ留学を終えて、帰国した梅子は、日本女性の社会的な地位の低さに驚きます。
そして、二度目の留学を終えた後に、日本の女子教育を変革する活動を始めました。
1883年 一度目の留学後の手紙
最初の長い留学を終え、津田梅子が日本に帰国した17歳の頃、アメリカで母親代わりになってくれていたランマン夫人に書いた手紙の中の言葉です。
日本女性は表に出ず、黙って男性に従うだけの存在になっていることへの驚き、そして憤りを言葉にしました。
また、梅子はこんな強い言葉さえ残しています。
彼女はその後女性の「教育」の必要性に目覚めていきます。
1900年 女子英学塾開校式辞での言葉
二度のアメリカ留学を経た梅子は、女性の高等教育機関として女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設して初代塾長となりました。
この開校式での言葉は、現在も津田塾大学の建学の精神として受け継がれています。
女子英学塾は、資金援助に多くを頼らなかったので、開校当初は梅子たちが無報酬で働いており、設備も決して立派ではありませんでした。
しかし、お金をかけた設備以上に、学生を導く力・資格・熱意のある教師と、向学の精神に満ちた学生たちが、意見を交えながら真実の学びに向かうことが学問の本質であることを皆に説いたのです。
しかし同時に、まだ日本女性が高等教育を受けることが珍しかった時代を反映した言葉も述べています。
当時、注目されがちだった女子英学塾の生徒たちには、学問によって世を生き抜く強い力を得て欲しいと願う一方、好奇の目で見られ、批判されることでかえって目的を邪魔されることのないよう、つつましやかな行動を勧めました。
当時の日本は、まだそんなことを考慮しなければならない時代であり、梅子は自分たちの思いを遂げるためには、その中でどう振る舞えばいいかを知っている賢い女性でした。
1913年 女子英学塾卒業式式辞での言葉
「一人一人の人生の航路には独りで立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題がある」
「私たちは、あらゆる面において、皆を助ける努力をしてきた。しかし将来は皆の手中にあり、皆は実際の体験における試練と教訓を待たなければならない」
学校という守られた場所から巣立ち、社会の現実と立ち向かう学生たちに梅子が正直に伝えた言葉です。
教えるべきことは教え、あとは学生一人一人の力量に任せる梅子の決断の言葉でもありました。
また、彼女は以下のようにも述べています。
学校で学んだことを社会に還元することの大切さを伝えました。
津田梅子自身が、アメリカ留学で学んだことを日本に還元する努力を続けていました。
学び取った成果を次の世代に伝えていくことの大切さを訴えたのです。
その後、女子英学塾出身の賢く、強い意志を持った多くの女性が英語教師として日本各地で活躍したのです。
さらに式辞で述べた言葉 バランス感覚のある日本女性へと
梅子は、日本女性がアメリカ女性の真似をすることを教えたのではありません。
たとえ働かずに主婦になるとしても、凜とした自我を持って、古く偏った考えを捨て、新しさへの探究心を忘れてはいけないのです。
同時に、育まれた日本女性としてのアイデンティティを手放さぬよう、努力を続けることの大切さを説きました。
アメリカ女性の強さを身に付けた、日本人女性としての梅子ならではの絶妙なバランス感覚あふれる言葉です。
津田梅子の助力で成長し、活躍した元学生たち
津田梅子が後世の日本人女性に活躍できるきっかけを作ったのは、女子英学塾を創設してそこで教鞭をとることだけではありませんでした。
それ以前の1889年からの二度目の留学では、梅子はアメリカ滞在を1年延長させて日本の実情を訴える公演や募金活動を行いました。
1891年には、集まった寄付金8000ドルで「日本婦人米国奨学金制度」という日本女性留学のための奨学金制度を設立しています。
この制度で計25人の日本女性がアメリカ留学を実現。
アメリカ時代の梅子と同じくプリンマー・カレッッジを卒業した留学生には、
・恵泉女学園創立者の河井道
・華族女学校教授の鈴木歌
・東京女子師範学校教授の木村文子
・第2代女子英学塾塾長となった星野あい
などがいました。
梅子の期待に応え、活躍した女性たちです。
梅子は、女子英学塾の塾長室に赤い印が散らばって付いている日本地図を持っていました。
印は、彼女の教え子たちの卒業後の就任地でした。
ひとつひとつ赤い印を付けながら、梅子は彼女の教えが日本に広がっていくことを実感していたのではないでしょうか。
きょうのまとめ
今回は、日本女性の高等教育の整備に尽力した津田梅子の名言を中心にご紹介いたしました。
簡単なまとめ
① 著書のない津田梅子だが、スピーチなどで数々の名言を残した
② 梅子は、女子学生に強くバランス感覚のある女性になることを勧めた
③ 梅子は、彼女の言葉を彼女自身が実践していた
これらの梅子の言葉は皆さんにとって耳が痛いですか?
それとも現代の私たちには当然のことのように聞こえるのでしょうか。
今とは社会常識の違う明治の時代に梅子が伝えた言葉は、その後の多くの女性たちに力と希望を与えたに違いありません。
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