紀元前4世紀末期、20歳の若さで父から引き継いだマケドニア王国を、そこからわずか10年足らずで史上最大の帝国まで育て上げた
アレクサンドロス大王。
その戦の強さと、進軍の勢いはどの時代の覇者を持ってしても、右に出るものはいないほどです。
築き上げた巨大な帝国においては、ギリシャ文化とアジアのオリエント文化の調和を目指し、その過程で生まれたヘレニズム文化が後世に広く受け継がれていきました。
歴史上の人物でも、戦の強い武将というのは特に魅力的なものです。
その最たる例ともいうべき、アレクサンドロス大王とは一体どんな人物だったのでしょうか。
彼の生涯の軌跡から、その人物像に迫っていきます。
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アレクサンドロス大王はどんな人?
- 出身地:マケドニア王国・ペラ(現在のギリシャ)
- 生年月日:紀元前356年
- 死亡年月日:紀元前323年6月10日(享年32歳)
- マケドニア軍を率いてアジア、エジプト、インドに渡る史上最大の帝国を築いた英雄。戦で負けたことは一度もない
アレクサンドロス大王 年表
西暦(年齢)
前356年(1歳)マケドニア王国の首都ペラにて、父ピリッポス2世、母オリュンピアスの間に生まれる。
前342年(14歳)父ピリッポス2世が家庭教師としてアリストテレスを呼び、師事する。
前338年(18歳)父ピリッポス2世の命により、カイロネイアの戦いで初陣を迎える。この戦いでマケドニア軍が勝利し、ピリッポス2世がギリシャ全域の覇権を握る。
前336年(20歳)父が護衛のパウサニアスによって暗殺され、王位を継承。反旗をひるがえしたギリシャ軍を抑え、再びギリシャを平定。
前334年(22歳)父の意志を継ぎ、東方遠征へ出発。マケドニア軍を率いて小アジアに渡り、駐屯していたペルシア軍を破りながら東方へ。
前333年(23歳)ペルシア最後の王・ダレイオス3世率いる10万人のペルシア軍に勝利。ダレイオス3世の母、妻、娘を捕虜に。
前332年(24歳)エジプトを占領、市民たちからファラオとして認められる。エジプトに都市アレクサンドリアを建設。
前331年(25歳)ダレイオス3世屈指の20万人に及ぶ軍を破る。バビロンなど、ペルシア王国の主要都市を占領。
前328年(28歳)降伏したペルシアの豪族・オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚。
前327年~326年(29~30歳)インド遠征。パウラヴァ族の王ポロスを破り、インドで猛威を振るったカタイオ人を制圧するが、部下たちの疲労がピークに達し、進軍を断念。
前324年(32歳)将軍クラテロスと手分けをして、残存する敵対勢力を制圧。ペルシアのスーサに帰還。内政ではマケドニア人とペルシア人の調和を図る。
前323年(32歳)バビロンにて熱病に苦しんだ後、死没。
アレクサンドロス大王の戦における逸話
アレクサンドロス大王の軌跡を辿ると、戦において多勢を相手にもひるまなかった逸話が度々見られます。
数的不利にもひるまずペルシア軍を撃退
紀元前333年、トルコ南部に当たるイッソスの戦いではダレイオス3世率いる10万人のペルシア軍と交戦。
このときなんと、マケドニア軍はわずか4万人の兵力で応戦したといいます。
結果的に倍以上の兵力を敗走させたというのは耳を疑うような話ですが、この勝利はアレクサンドロス自身の機転の早さによるものでした。
ペルシア軍は大軍で押し寄せたものの、戦場は海岸沿いの狭い地形だったため、十分に戦力を展開できずにいました。
その隙をついたアレクサンドロスは自ら大将のダレイオスに突進。
これを受けてダレイオスが逃げ出したため、負けを確信したペルシア軍も敗走することになったのです。
このときアレクサンドロスは捕虜としてダレイオスの家族を捉えています。
そして逃げ出したダレイオスよりも、むしろ捕虜になった自分たちを丁重に扱ったアレクサンドロスのほうに、家族たちは好意を寄せていたなんて話も…。
ガウガメラの戦いでは敵将だったダレイオスの死をとむらう
幾度に渡ったペルシア王国との交戦は紀元前331年、現在のイラク北部に当たるガウガメラの戦いで幕を降ろします。
このときも兵力差は歴然としていて、なんとマケドニア軍はペルシア軍の5分の1の兵力で抗戦しました。
そしてこの戦でもアレクサンドロスは自ら敵軍の陣形に出来た裂け目に突入し、ダレイオスを追い詰めます。
巧みに戦術を駆使しながらも、要所は王自らが担う姿は武将の鏡といったところでしょう。
これによって再度ダレイオスが逃げ出したため、またしても戦はマケドニア軍の勝利に終わります。
あれ?ペルシア軍との戦いはこれが最後じゃないの?という声が聞こえて来そうですね。
そう、ダレイオスはアレクサンドロスの手からは逃れたものの、側近のベッソスに裏切られて殺害されてしまうのです。
アレクサンドロスとしては、殺す手間が省けたというところか…と思いきや、彼は仲間を裏切って自らが君主になろうとしたベッソスを許さず、彼を処刑します。
そして殺されてしまったダレイオスに対しては、その無念をねぎらうかのように、葬儀を執り行ったのです。
その男らしさに、多くの部下から信頼されていたことが垣間見えるエピソードですね。
インド・ヒュダスペス河畔の戦いでは戦死した愛馬をとむらう
紀元前326年、インドに侵攻を進めていたマケドニア軍は、ヒュダスペス河畔の戦いにて、パワラヴァ族の王ポロスが率いる軍と対峙することになります。
このときはそこまでの数的不利こそなかったものの、ポロス軍の川を挟んだ攻防、象を使った戦法などにほんろうされ、苦戦を強いられました。
最終的には攻撃された象が取り乱した隙をついて、戦に勝利しますが、この戦いで12歳の頃から連れ添った愛馬ブケパロスを亡くしてしまうことに…。
ブケパロスとアレクサンドロスには、出会いに関しても逸話があります。
ブケパロスは元々「誰も乗りこなせない暴れ馬」としてマケドニアで持て余されていた馬でした。
それをわずか12歳の少年だったアレクサンドロスが手なずけ、乗りこなしたのです。
その後まさにアレクサンドロス専用の馬として、戦場でも大いに活躍しました。
競馬でも馬が速く走れるピークは4、5歳とされていることを考えると、10年以上もアレクサンドロスを乗せて戦場を駆け抜けたブケパロスの強靭さが見て取れます。
そんな愛馬をとむらう意味を込めてか、アレクサンドロスはブケパロスが没したその地にて「アレクサンドリア・ブーケファリア」という町を作りました。
きょうのまとめ
アレクサンドロス大王の生涯を辿ると伝わってくるのは、まず類まれな戦のセンス。
劣勢をものともせず、戦況をくつがえしたいくつもの逸話には、心躍らせるものがあります。
また同時に誠実な人柄に多くの部下たちが信頼を置いていたことにも納得です。
自らの君主を裏切ったバッソスを許さず、不慮の死を遂げてしまった敵将のダレイオス3世をとむらう姿には、敵であろうと公平な目で物事を見ていることを感じさせられます。
また捕虜にしたダレイオスの家族を丁重に扱ったのも、彼女たちには何の落ち度もないことを配慮する姿勢からでしょう。
最後に今回の内容をまとめておきましょう。
① アレクサンドロス大王は、ペルシア軍との交戦で自軍の数倍の勢力を持つ敵軍を幾度と下した
② ダレイオス3世の死に際して、不義を行ったバッソスを許さず、敵将であろうとダレイオスを丁重にとむらった
③ インドでは10年以上戦場で活躍した愛馬ブケパロスの名前を町に付ける
アレクサンドロス大王は、ただ戦が強かっただけで英雄と呼ばれているわけではないのです。
その強さと同時に懐の深さを持っていたから、尊敬に値する人物として、後世に語り継がれているのですね。
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