徳川家定は、江戸幕府の第13代将軍です。
この将軍についてぱっと思い浮かぶ人はかなりの歴史通。
一体徳川家定とはどんな人物だったのでしょうか。
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徳川家定はどんな人?
- 出身地:江戸(現東京都)
- 生年月日:1824年5月6日
- 死亡年月日:1858年8月14日(享年35歳)
- 5年間だけ就任した江戸幕府第13代征夷大将軍で、篤姫の夫。虚弱のためほとんど政務を執ることができなかった
徳川家定 年表
西暦(年齢)
1824年(1歳)第12代将軍・徳川家慶の四男として誕生
1831年(8歳)摂関家・鷹司他任子を正室として迎える
1840年(17歳)疱瘡(天然痘)にかかるが、のち全快する
1848年(25歳)一条秀子を2人目の正室として迎える
1853年(30歳)将軍・家慶が病没し、家定が第13代征夷大将軍となる
1856年(33歳)篤姫が3人目の正室となる
1858年(35歳)死没
徳川家定、35年の生涯
徳川家定が第13代将軍に就任していた期間は5年間だけでした。
その就任中に家定が政治的な手腕を発揮することはほとんどなく、現代の私たちには馴染みの薄い将軍であるかと思います。
しかし、大河ドラマ『篤姫』をご覧になった方ならおわかりでしょうか。
家定は、あのドラマの主人公の天璋院篤姫の夫です。
家定誕生
1824年徳川家定は、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で誕生しました。
実は、家慶がもうけた14男13女のうち、成人まで生き残ったのはこの家定だけ。
彼が生まれた時には3人の兄も全て亡くなった後のことでした。
彼も幼少の頃から病弱だったそうです。
家定は将軍の跡継ぎにふさわしくなかった?
1841年に、家定の祖父である大御所(元11代将軍)・徳川家斉が亡くなると、家定が第12代将軍・徳川家慶の世嗣(世継ぎ)となることが決まりました。
もともと家慶は、家定に跡継ぎとしての能力が無いことを心配し、御三卿の一つである一橋家の徳川慶喜を次の将軍にと考えていました。
しかし、徳川将軍は代々長子相続が伝統であり、それを理由に老中・阿部正弘らが反対。
そこでやはり家定を将軍継嗣とすることに決着した経緯がありました。
家定、将軍就任
1853年、黒船が来航します。
世は激動の時代を迎えていました。
そんな中、1853年7月27日家慶が病死。
徳川家定は第13代将軍に就任しました。
翌1854年2月13日には、ペリー提督が7隻の艦隊を率いて再来日し、幕府が日米和親条約に調印しています。
おそらく、身体の弱い家定は、めまぐるしく変わる社会状況とそれに伴って増える将軍としての業務に身も心も参っていたのでしょう。
当時の体調はかなり悪化しており、廃人同様だったという話しもあります。
幕政は、執務できない家定の代わりに老中の阿部正弘が、のちには堀田昌睦が取り仕切りました。
家定にも体調のよい時期はあり、1857年10月には、米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見しています。
結婚と世継ぎ問題
【家定将軍の妻たち】
家定の1人目の正室は、摂関家の鷹司任子、2人目の正室は公卿の一条忠良の娘・一条秀子でしたが、どちらも病により早世しています。
将軍には虚弱で子がおらず、2人の正室も病没して江戸城大奥の主は不在が続いていました。
そこで3人目の正室として1856年に輿入れしてきたのが篤姫(天璋院)でした。
かつての第11代将軍徳川家斉の妻・広大院のように子を多く持ち、長生きできる薩摩の島津家出身の健康で強い女性として白羽の矢が当たったのが篤姫だったのです。
【将軍の世継ぎ問題】
篤姫輿入れ後も、子を期待できそうにない将軍家定の跡継ぎ問題は、幕府の課題でした。
候補となったのは、家定とは従兄弟関係の一橋慶喜と第11代将軍家斉の孫・紀伊慶福(のちの徳川家茂)です。
慶喜は「家康の再来」と言われるほどの切れ者。
しかし、血筋では慶福が勝ります。
どちらの候補を推すかで幕府も大名も「一橋派」と「南紀派」に分かれ、運動が過激になっていきました。
実は将軍家定は、一橋慶喜にコンプレックスを持ち、嫌っていたようです。
そして1858年6月25日、諸大名を招集して紀伊藩主・徳川慶福を次期将軍にする意向を伝えました。
さらに彼は一橋派の諸大名の処分を決定。
政務を老中に丸投げしていた家定が、将軍らしい決断をしたのは、この時が最初で最後となりました。
将軍家定の死
そしてその翌日の朝、家定はなんと急死してしまったのです。
死因については幾つかの説があります。
・当時流行していたコレラに感染
・毒殺
などです。
毒殺説は、彼の死が一橋派の諸大名の処分の翌日だったことから噂されました。
真相は謎のまま家定の遺体は上野の寛永寺に埋葬されています。
この家定の死をもって、家慶の血筋は断絶となりました。
将軍家定の人物像
生来病弱だった徳川家定は、脳性麻痺だったと言われています。
そのためか、家定の行動や性格には特徴があります。
性格
・猜疑心が強かった
・豆を煎ったり、カステラや饅頭を作ったり、ふかし芋や煮豆なども作り、家臣たちに振る舞う無邪気なところもあった
ふかし芋などを作る家定を、越前藩主の松平慶永は陰で「いも公方」と呼んだそうです。
自分で調理したのは、猜疑心の強い家定が毒殺を恐れていたから、とも言われます。
身体的特徴
・家定に謁見した米国総領事タウンゼント・ハリスによれば、家定が言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏みならした(これは脳性麻痺典型的な症状を示す)
・推定身長は149~150cm
家定が人前に出たがらなかったのは、脳性麻痺や疱瘡のあざの影響かもしれません。
推定身長の数値は、愛知県にある徳川氏菩提寺・大樹寺の位牌によるものです。
寺にある歴代徳川将軍の位牌は各将軍の臨終時の身長と同じ高さだと言われるため、位牌から推測されました。
人物評価
評価については二つに分かれています。
・『安政紀事』には「病のために政治が行えず、政務の場における礼儀をなんとかわきまえていた程度だ」という記述あり
・明治時代の幕臣・朝比奈昌広は「凡庸だ暗愚だといわれているが、松平慶永や島津斉彬らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはず」と弁護
・1857年10月21日に家定に江戸城で謁見したハリスは「堂々とした将軍だった」と好意的だった
きょうのまとめ
今回は虚弱で病に苦しんだ第13代将軍・徳川家定をご紹介しました。
徳川家定とは
① 生まれ持った障害と病に苦しんで政務を執ることができなかった将軍
② 天璋院篤姫を3人目の正室として迎えた夫
③ 自分の跡継ぎ問題を自ら決定した翌日に亡くなった悲運の人
でした。
健康を保てず、政治も思うように執れなかった将軍家定は、何を考えて5年間の将軍生活を送っていたことでしょう。
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