ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺ホロコーストの象徴として世界中で知られるようになった
アンネ・フランク。
アンネが世界中で知られるようになったのは、彼女の残した日記が世界中の人々の心に感動の渦を与えたからです。
「アンネの日記」には、彼女の生々しい隠遁生活と、それでも希望を忘れず前向きに生きようとする強さが見て取れました。
ここでは、そんなアンネ・フランクについて簡単にまとめたいと思います。
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アンネ・フランクはどんな人?
- 出身地:ドイツ国 フランクフルト・アム・マイン
- 生年月日:1929年6月12日
- 死亡年月日:1945年3月5日(享年15歳)
- アンネの日記を残し世界中を感動の渦に巻き込む
アンネ・フランク年表
西暦(年齢)
1929年(0歳)ドイツのフランクフルトで生まれる。
1934年(5歳)アムステルダム・ザウトに移り住む。モンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学。
1941年(12歳)法律によりユダヤ人はユダヤ人学校へ転入させられる。
1942年(13歳)父オットーから日記をプレゼントされる。後のアンネの日記の創作開始。隠れ家生活が始まる。
1944年(15歳)逮捕。ヴェステルボルク収容所→アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所→ベルゲン=ベルゼン収容所へ輸送される。
1945年(15歳)2月か3月にベルゲン=ベルゼン収容所で死亡されたとされる。
アンネ・フランクは約2年間も隠れ家で隠遁生活
秘密の入り口
アンネはヒトラーのユダヤ人虐殺から逃れるために、
1942年7月6日より、父オットーが少しずつ準備していたアムステルダムのプリンセン運河263番地にあったオットーの会社の後ろの家に隠れて住んでいました。
隠れ家にはアンネの家族と他に四人が加わり、カーテンで締切、水の使用も音を出さないよう限られた時間しか使えなかったのです。(トイレの使用も事務所が閉まる夕方以降と早朝のみ)。
後ろの家の3階と4階にアンネ達の暮らす隠れ家があったのですが、3階に大きめの本棚を置き、秘密の入り口を隠していました。
アンネは母親と仲が悪かった?
アンネは母エーディトと仲が悪かったようで、日記でも母の批判について多く書かれていました。
しかし、父オットーによると、このことに関しては妻エーディトもかなり悩んでいたようで、実際エーディトは良く出来た母親だったと後年オットーは述べています。
収容所に入れられてしまってからは、アンネは母親の側にいることが多かったとの証言もあり、確かに激しい衝突はあったのは確かですが、それでも親子愛は強かったのではないかと推測されます。
アンネは問題児だった?
隠れ家生活では、アンネは共に共同生活していたファン・ペルス夫妻やフリッツ・プフェファーとの対立が激しく、しばしばアンネの妥協のない態度に立腹した彼らは、フランク夫妻に抗議したと言われています。
しかし、このような時には母エーディトはアンネの味方だったようで、複雑な共同生活の関係性が垣間見えます。
しかし、それでも隠れ家生活は楽しいものだった
色々と問題があったのも事実ですが、隠れ家で暮らすメンバーは頻繁に祝い事をして、夜は楽しい時間が多かったとアンネの日記に記されています。
毎週金曜日に行うユダヤ教の安息日の儀式、隠れ家メンバーの誕生日、ハヌカー祭、クリスマス、新年などでは、大いに楽しんで大騒ぎしていたという記述があります。
アンネ・フランクの逮捕と死まで
約二年に渡り隠れ家で隠遁生活をしていたアンネ・フランクですが、1944年8月4日午前10時半頃、アンネたち隠れ家のメンバーはユダヤ人を匿っているという通報を受けたナチス・ドイツの情報部により掴まります。
その後、1944年8月8日にオランダ北東のヴェステルボルク収容所に入れられました。
アンネ達を匿っているという情報を情報部に流した人物は特定されていなく、たまたま見つけられてしまったという説もあり、未だに謎とされています。
ヴェステルボルク収容所ではアンネ、マルゴー、エーディトは電池の分解作業に割り当てられ、朝食は僅かなパンと水っぽいスープだけだったと言われます。
アンネは1944年9月上旬にアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所に入れられ、11月頭に衛生環境が悪く餓死者と病死者が続出するベルゲン=ベルゼン収容所に移され、
1945年2月か3月にチフスに感染し亡くなりました。
きょうのまとめ
アンネ・フランクについて簡単にまとめました。
要約すると……
① アンネは母と隠れ家生活では仲が悪かったが、収容所では側にいることが多かった
② アンネは問題も多かったが魅力的な女の子だった
③ アンネは1945年に感染症にかかり死亡した
アンネが残した日記は、その後、父オットーによって出版されます。
それは世界的に話題となり、各国で翻訳され、劇として上映され、世界中の人達に愛されるようになったのです。
アンネ・フランク生前、作家かジャーナリストになりたかったと言っており、隠れ家生活も出版するつもりだったと言います。
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