坂本龍馬が姉の乙女に送った手紙の中に、こんな一節があります。
「天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり・・・・・・」
勝麟太郎とは、
咸臨丸での太平洋横断や江戸無血開城で有名な
勝海舟のことです。
このように坂本龍馬と勝海舟は交流がありましたが、具体的にはどのような関係だったのでしょうか。
今回は、明治維新の立役者となった二人の関係について、簡単にご紹介していきます。
タップでお好きな項目へ:目次
坂本龍馬は勝海舟の弟子
冒頭でご紹介した通り、龍馬は海舟の「門人」、つまり弟子だったのです。
龍馬は海舟の下で何を学んでいたかというと、海軍の技術でした。
坂本龍馬は勝海舟を斬りに行ったのが出会い?
二人の初対面のときの有名なエピソードがあります。
それは龍馬が海舟を斬りに行ったものの、逆に諭されて弟子入りをしたという話です。
素敵なエピソードですが、どうやら勝海舟の記憶違いというのが一般的な見方となっているようです。
ですが、勝海舟は刺客に遭遇しても追い返したことは、しばしばあったとも言われています。
自分を殺しに来た人間を説得して追い返すとは・・・・・・勝海舟、恐るべしですね。
理路整然と今後の国家の行くべき道を語る姿が、たやすく想像できます。
松平慶永の紹介状で師弟関係に
実際には、松平慶永(春嶽)という人物の紹介で、龍馬は海舟と出会いました。
越前福井藩主だった春嶽は、龍馬を気に入っていたようです。
そこで勝海舟と横井小楠への紹介状を渡したと言われています。
ということですので、勝海舟と坂本龍馬は平和的な出会いをしているようです。
そして龍馬は海舟を通じて、西郷隆盛とも出会うことになります。
その出会いが薩長同盟、そして大政奉還へと繋がっていくのです。
人と人とのつながりが歴史を大きく動かしたとは、
感動的ですね。
勝海舟のために働いた坂本龍馬
こうして勝海舟の弟子となった龍馬は、海軍操練所設立のために尽くします。
海舟は当時、第14代将軍の家茂に対して海軍の創設を訴えました。
幕臣・勝海舟にとって重要な存在だった坂本龍馬
そして神戸海軍操練所が設立されることとなったのですが、どうも資金が足りなかったようです。
そこで勝海舟と龍馬はどうしたかというと、とある人物から援助を受けようとしました。
先ほど少し触れましたが、二人を引き合わせた春嶽から5千両もの資金を引き出すことに成功したのです。
こちらの交渉役を務めたのは龍馬でした。
龍馬は資金集めだけではなく、京都や大坂(当時は大阪ではなく、大坂と書くのが一般的でした)の情報を集めたりもしていたようです。
というのも、勝海舟は幕府の役人という立場上、思ったように行動できなかったと言われています。
そこで、龍馬の行動力が必要だったのです。
海舟にとって、自由に動ける龍馬はなくてはならない存在だったようですね。
坂本龍馬のその後の人生・日本の行く末を変えた勝海舟
そして冒頭で紹介した、龍馬から姉・乙女への手紙が書かれたのは、どうやらこの時期だったようです。
その後、龍馬は神戸へ向かい、神戸海軍塾塾長を務めたとされています。
そんな神戸海軍操練所はわずか1年で閉鎖されることとなってしまいます。
ですが海舟の下で学んだ技術は、その後の龍馬の人生にとって重要な影響を及ぼしていきます。
龍馬に海軍の技術がなければ、海援隊を結成することはなかったかもしれません。
さらに、薩摩藩や長州藩などとも交流する機会はなかったかもしれませんね。
勝海舟は、龍馬の人生だけではなく、日本の将来にも大きな影響を及ぼした人物とも言えるでしょう。
きょうのまとめ
今回は勝海舟と坂本龍馬の関係についてまとめましたが、いかがでしたでしょうか。
勝海舟と坂本龍馬は、
① 海軍技術において、師弟関係にあった
② 勝海舟にとって、坂本龍馬はなくてはならない存在だった
③ 坂本龍馬にとっても、勝海舟の下で学んだことはその後の人生に大きな影響を及ぼした
④ 二人の関係は、その後の日本にも大きな影響をもたらした
と言えるのではないでしょうか。
勝海舟と坂本龍馬については、他にもたくさんの記事を書いています。
興味を持たれた方は、ぜひご覧になってくださいね。
勝海舟の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「勝海舟はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す