おそらくいまや日本史上もっとも有名な水墨画家
雪舟。
そんな彼のなみはずれた天才ぶりを少年時代からうかがわせるエピソードです。
「ネズミの絵」
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ネズミの絵
雪舟は武家の出身ですが、お坊さんになるために幼いうちから禅寺に預けられていたということです。
雪舟少年は絵を描くのが大好きです。
寺のお掃除も修行もそっちのけで絵ばかりを描いておりました。
ところがある朝、和尚さんはそんな雪舟におこって、本堂の柱に縄でくくりつけてしまいました。
その日の夕方、和尚さんがかわいそうになって様子を見に行くと雪舟少年の足元に一匹の大きなネズミが動き回っているではありませんか。
和尚さんは
「少年にかみついてはならん」
とはらいのけようとしたところ、いっこうに動く様子が見られません。
おかしいな
と思ってようく見直すとそれはなんと少年が自分のこぼした涙で足の指を使って床に描き出したものだったのです。
まるで動いて見えるほどに生き生きと。
和尚さんはそれからというもの少年が絵を描くのをとがめなくなったということです。
雪舟のネズミ絵伝説のあるお寺の歴史
この伝説のあるのは岡山県総社市にある宝福寺という臨済宗(鎌倉前期に栄西が日本に伝えた禅宗の一派)のお寺です。
元は天台宗(平安初期に最澄が伝えた仏教の一派)だったのですが、鎌倉時代にあらためられました。
当時の四条天皇が病気になり、寺の住職が無事になるよう祈っていたところ、
寺に星が落ち、天皇の病気は治ったようです。
以来発展し、一時は塔頭・学院55・末寺300というとても大きな寺となりました。
戦国時代には地元の大名三村氏と宇喜多・毛利の連合軍が戦った備中兵乱により三重塔を残して後はみんな戦火に焼けてしまったようです。
その後は荒れ果てておりましたが、江戸初期に復興がなされました。
今、境内にはかつて内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎さんのお墓があり、眠っていらっしゃいます。
一度ブランドになると……
ほかの記事にも紹介しましたが、雪舟は生前そんなに有名な画家だったわけではありません。
彼が有名になったのは後代に画壇を席巻した狩野派が「雪舟を師」とあおいでからです。
諸大名らが急に血眼になって雪舟作をあさり始めるのです。
そして、そんな時期にまた一人。
狩野派と勢力を二分した画壇のある巨匠がおりました。
長谷川等伯。
等伯はいきなりこんなことを言い始めます。
俺は雪舟五代の子孫だ
拝啓、ひいひいおじい様。長谷川等伯と申します
戦国ファンなら一度は見たことがあるでしょう。
等伯が描いた、「武田信玄の肖像画」。
公の右傍の木枝にとまる鷹が描かれているやつがあるのですが。
あの鷹は産地である越前、つまり朝倉を表し。
なぜか信玄公、手に袋を持っているのですが、これは袋物で有名な本願寺を表し。
さらに公の左のかたわらにある刀の家紋が武田菱じゃないんです。
二両引き。足利の家紋です。
つまり、当時は信長包囲網で諸大名が連合して、ことに当たっていったまっさかり。
そこに朝倉、本願寺、足利将軍家、武田、の結束を暗にほのめかしていたのではないかという説があります。
ダテで狩野派とはりあってるわけではない!!!!!!!!
狩野派のような伝統や組織力はありません。
等伯は、能登(石川県北部)の一仏画師からはい上がってきた人です。
いろんな大名などに取り入ったり、眉唾な(?)広告イメージ戦略をとってみたり、画家の世界も売れようと思うといろいろあるみたいですね(青木繁やゴッホがなんか……)。
ちなみに私は等伯の作品大好きです。
特に晩年のがいいです。
『松林図』はあの時代「大名画」特有のわざとらしさや嫌味がありません。
このあたりは雪舟の晩年作
『破墨山水図』
をほうふつとさせます。
きょうのまとめ
経歴詐称ではないと信じたいですね。
等伯さん、あせりまくってたのでしょうか(もう詐称したことにしてしまってますね)。
① 雪舟は幼いころ自分の涙でネズミを描き、あんまり生き生きしているので和尚さんもびっくりした!
② 雪舟のネズミ絵伝説があるのは岡山県総社市の宝福寺
③ 長谷川等伯は経歴詐称をしていないと信じたい
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