「天空の城 竹田城」
早朝、風はやみ、気に冷たさが張りつめております。
霧はどこまでも濃く立ちけぶり、やがてそれは天上に忽然と姿を現します。
かつては地元などごくかぎられた、知る人ぞ知る秘めやかな古城跡でした。
この竹田城を築いたのが実は
山名宗全
という伝承なのは知っていましたか。
今回はそんな幻想的な乱世の夢のあとを追ってまいりましょう。
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創建と赤松氏の抗争
山がちな南但馬(今の兵庫県北東部)、円山川沿いの谷間にそれはあります。
古来、その泰然とそびえる威容から虎臥城(こがじょう)とも呼ばれます。
創建は永享(1429~41年)にさかのぼります。
谷間づたい南にたどりゆけば、播磨(今の兵庫県南西部)の強豪赤松氏がひかえます。
間もなく、当主・赤松満祐が
「万人恐怖」
と畏れられる足利第6代将軍・足利義教を暗殺する嘉吉の乱を引き起こします。
山名は満祐追討の任を帯びて、双方による軍事衝突がこの一帯に繰り広げられます。
竹田城が美しい意外な理由
14世紀末には、全国66か国のうち11か国を領有し、六分一殿
とまでたたえられた山名一族。
しかし、応仁以来の世の混迷のあおりを受けて、宗全亡き後またたく間に没落してゆきます。
そんな状況にあって、当主・山名祐豊が領内の富国強兵を推し進め、戦国大名への脱皮を推し量ります。
世は東に織田。西に毛利。
そして、近隣各在所には小豪族がひしめき、たがいに虎視眈々とうかがいあっております。
祐豊山名氏は勝敗をくりかえし、時に織田、時に毛利、と目まぐるしくその陣営を鞍替えして行きます。
やがて、羽柴秀長(豊臣秀吉の異父弟)が兵を引き連れ侵攻。
竹田城はその決戦の舞台となります。
が、伝承では3日間。
あれほどの威容もあっけなく、羽柴の手によって陥落してしまいました。
山名豊国、竹田城を取り戻す
その後、竹田城は豊臣氏によって赤松氏の手に移ります。
竹田城がほこるあのおもむき深い野面積み(自然石をそのままパズルのように組み合わせます。一見不ぞろいですが、水はけがよく、構造に弾力があります)。
この石垣は、この時代によって出来上がったものです。
が、そこに山名氏頭領として“意外な(?)”活躍を見せたのは、山名豊国。
ゲームになじみがあるなら、え?あの信じられないくらい「あらゆる」能力の低い武将だろ。
と、思われるかも。
司馬遼太郎の『太閤記』でも、ただの時代遅れで軽薄な貴種ぐらいのあつかいです。
確かにこの人、家臣らにはまったく人気がなく、本人は何かあればすぐにあっちへこっちへと鞍替えしてしまいます。
ただ、なぜか“そういった”嗅覚は確かなもので、彼のつく側はたいてい勝ちます。
それでも大名時代の彼なりの気苦労は相当だったのかもしれません(彼の見捨てた鳥取城は秀吉によって“飢え殺し”にされております)。
と秀吉に声をかけられても、いやがって小身で浪々しておりました。
そこにきて、関ケ原の戦いが起こるんですね。
豊国は東軍方につき、勝利の褒美として竹田城下6700石を与えられます。
城は幕府の方針によりまもなく廃城となりますが、山名家は高家(儀式や典礼をつかさどる役職)旗本として、江戸時代を通じて存続いたしました。
<竹田城>
きょうのまとめ
竹田城の壮観はあらゆる四季・天候に応じて深い味わいを見せますが、
わけても“霧のシーズン”
11月~12月ごろがおすすめ。
3日以内に雨が降り、しかも晴れ渡る早朝を選んで、アクセスをかけると“確率”が高まります。
城山の頂上に登っても素晴らしいですが、円山川向かいにある立雲峡から一望に収めてみるのもよいでしょう。
ともに山途中、駐車場があり、そこから徒歩。
② 竹田城は羽柴秀長の手によってわずか3日で陥落した
③ 竹田城は一時ライバル赤松氏の手に移ったが、山名豊国によりその手に戻った
竹田城から少し足を運ぶと、古式ゆかしい“小京都”の城下町「出石城」
弓なりの湾にせまる漁師町「伊根の舟屋群」
青海に昇る一体の碧竜「天橋立」
但馬・丹後はええとこやで。
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