「日本のケインズ」とも呼ばれる
高橋是清。
彼は一体、どんな人物だったのでしょうか。
今回は高橋是清の生涯について、簡単にご紹介します。
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高橋是清はどんな人?
- 出身地:江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)
- 生年月日:1854年7月27日
- 死亡年月日:1936年2月26日(享年83歳)
- 第20代内閣総理大臣。7度も財相を務め、金融恐慌も鎮静化した財政の天才。二・二六事件で暗殺される。
高橋是清 年表
西暦(年齢)
1854年(1歳)江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で誕生。
1864年(11歳)ヘボン博士の塾で学ぶ。
1867年(14歳)アメリカに留学するも、奴隷契約を結ばされる。
1868年(15歳)帰国。
1884年(31歳)農商務省に入る。
1892年(39歳)日本銀行に入る。
1904年(51歳)日露戦争の外債募集のため欧米へ。
1905年(52歳)貴族院議員となる。
1911年(58歳)第7代日本銀行総裁となる。
1913年(60歳)第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(以下、蔵相)となる。立憲政友会入党。
1918年(65歳)原敬内閣の蔵相となる。
1921年(68歳)立憲政友会総裁、第20代内閣総理大臣(蔵相兼任)となる。
1922年(69歳)内閣総辞職。
1924年(71歳)衆議院議員選挙に出馬し当選。加藤高明内閣の農商務大臣となる。
1927年(74歳)田中義一内閣の蔵相となる。
1931年(78歳)犬養毅内閣の蔵相となる。
1932年(79歳)総理を臨時兼任後、斎藤実の蔵相となる。
1934年(81歳)岡田啓介内閣の蔵相となる。
1936年(83歳)二・二六事件で襲撃を受け、死亡。
放蕩生活から一転「財政の天才」と呼ばれるまでに
高橋是清が生まれたのは幕末、幕府の御用絵師の家でした。
ですが生後間もなくして、仙台藩足軽の高橋家へと養子に出されます。
職を転々とする生活
ヘボン式ローマ字でも有名なヘボン博士の塾で英語を学び、アメリカへと留学した是清。
しかし渡米後に待っていたのは、なんと労働でした。
だまされて、奴隷契約書にサインをしてしまったのです。
この件について、詳しくは後ほどご紹介します。
帰国した是清は、森有礼の書生となったり、英語教員の職にも就きました。
ですが当時の是清は放蕩三昧。
芸者遊びに明け暮れ、結局は教員の職を捨てるまでのめり込んだといいます。
その後は、職を転々とする生活がしばらく続きました。
日本銀行に入行し活躍 政界へ
若い頃はどうしようもなかった(?)高橋是清でしたが、日本銀行に入行すると次第に頭角を現します。
日露戦争の際には、戦費調達のための外債発行(アメリカやイギリスで債券を発行)に成功しています。
その後は横浜正金銀行の頭取などを経て、日本銀行の第7代総裁を務めることに。
さらに大正2年(1913)、山本権兵衛内閣の蔵相として入閣し、同時に立憲政友会にも入党しています。
所得税法などの改正や、大規模な行政の人員整理などを行いました。
原敬内閣の蔵相時代には産業振興政策を推し進めるも、
在任中の総理・原敬が東京駅で暗殺されるという事件が起こります。
この出来事がきっかけで、高橋是清が次の立憲政友会の総裁、
そして内閣総理大臣に任命されることになりました。
二百日余りで幕を下ろした内閣
転んでもただでは起きないことから「だるまさん」「だるま宰相」と呼ばれた高橋是清。
しかし、内閣は短命に終わります。
是清自身、政治経験が乏しく、党内をうまくまとめ上げることができなかったからです。
ですがその2年後、それまでの貴族院議員の座を辞し、衆議院議員選挙に出馬。
見事当選を果たし、加藤高明内閣の農商務相となりました。
「高橋財政」と二・二六事件
昭和2年(1927)、昭和金融恐慌(銀行への取り付け騒ぎが起こり、銀行や会社の倒産が相次いだ出来事のこと。)で第1次若槻礼次郎内閣が倒れます。
それを受けて誕生することになった田中義一内閣の蔵相に、是清は再び抜擢されました。
するとモラトリアム(支払猶予令。銀行の支払いを一時ストップさせた。)を発令し、昭和金融恐慌を終息させることに成功しています。
昭和6年(1931)には犬養毅内閣の蔵相となると、
浜口雄幸内閣の下で行われた「金輸出解禁(=為替相場を安定させて、貿易を拡大するための政策)」が世界恐慌のために失敗、転換を図りました。
・紙幣の金貨兌換停止
紙幣と金を交換しないこと。かつては発行する紙幣と同額の金が保管されており、交換を保証する仕組みでした。
を行っています。
なお、1931~36年の間に行われた財政政策は「高橋財政」と呼ばれ、今でも高く評価されています。
昭和7年(1932)に成立した斎藤実内閣の蔵相就任時には、日本初の赤字国債を発行。
それを日本銀行に引き受けさせる(=保証させる)という形を取り、速やかに市中に流通させます。
その結果、農村救済のための費用と軍事費を増加させることに成功しました。
そして昭和9年(1934)、岡田啓介内閣に入閣したときは、実に7度目の蔵相就任でした。
当時、軍事予算の拡大を狙っていた軍部と是清は対立。
恨みを買ってしまった是清は、二・二六事件で青年将校たちによって殺害されます。
享年83歳でした。
関連記事 >>>> 「大蔵大臣高橋是清が暗殺された理由について簡単に説明」
高橋是清にまつわるエピソード
高橋是清は人間的にも魅力的な人物です。
そこで今回は高橋是清の愛すべき(?)エピソードを2つほどご紹介します。
アメリカで奴隷に!?だまされやすい性格
高橋是清は頼まれたら断れない人間で、だまされやすくもあったようです。
是清は十代前半でアメリカへと留学することになりました。
しかし、渡米の手配を頼んだアメリカ人貿易商に、学費と渡航費をだまし取られます。
さらにホームステイ先でもだまされ、年季奉公の契約にサインさせられてしまいます。
こうして是清少年は、ブドウ園などでの労働を余儀なくされました。
農商務省時代には先輩の誘いで海外の銀山に手を出すも、またもやだまされています。
この出来事の経緯については、下記に書いています。
関連記事 >>>> 「高橋是清はお札になっていた!お金にまつわるエピソード3選」
さらに晩年には、NHKにもだまされています。
NHKからのラジオ出演の依頼を断った是清。
その代わりに講演を行うことになったのですが、
その場にはちゃっかりラジオのマイクが用意されていたそうです。
衆議院本会議場で堂々とお酒を
高橋是清がお酒を覚えたのは、まだ十代前半の頃。
今で言うと、小学生高学年くらいでしょうか。
とにかく是清は、お酒が大好き。
衆議院の本会議場でも、堂々とお酒を茶碗に汲み、すすっていたそうです。
しかし、本人のキャラがキャラだけに、とがめる人もいなかったのだとか。
だるまさん、愛され過ぎです。
きょうのまとめ
最後までおよみいただきまして、ありがとうございました。
今回は「だるま宰相」こと高橋是清についてでしたが、いかがでしたでしょうか。
高橋是清とは?
① 若い頃は放蕩生活を送っていたが、日本銀行に入って活躍。認められ政界に入った。
② 内閣総理大臣も務めたが、大蔵大臣時代の「高橋財政」の評価のほうが高い
③ だまされやすいが、愛すべきキャラクターだった
こちらのサイトでは他にも、日本の歴代総理大臣の生涯についてわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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