山内豊信は幕末期に土佐の藩主です。
藩主隠居後の「山内容堂」の名前の方が有名かもしれませんね。
坂本竜馬他多くの幕末の志士を輩出した土佐藩の名君として名高い山内豊信ですが、なかなか面白い人物だったようです。
今回は、幕末の四賢侯の一人とまで評価される土佐藩15代藩主・山内豊信(容堂)について紹介していきます。
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山内豊信はどんな人?
- 出身地:高知県高知市(高知城下)
- 生年月日:1827年11月27日
- 死亡年月日:1872年7月26日(享年46歳(満45歳))
- 幕末期の土佐藩主。引退後も藩政の主導権を握り、幕政にも介入し江戸幕府の幕臣が坂本竜馬に話した「大政奉還」の案を後藤象二郎より聞き十五代将軍・徳川慶喜に建白。慶喜に大政奉還が行われ江戸幕府は政権を天皇(朝廷)に返還した
山内豊信年表
西暦(年齢)
1827年(1歳)分家のため土佐藩の高知城下で生まれる。(幼名、輝衛)
1848年(22歳)土佐藩の藩主に就任。
1853年(27歳)吉田東洋をし土佐藩の計画を実施。
1854年(27歳)吉田東洋を謹慎の身とする。
1857年(31歳)再び吉田東洋を登用し、幕政に対する積極介入を開始。
1859年(33歳)井伊直弼の安政の大獄に憤慨して隠居。幕府から謹慎を受ける。
1862年(36歳)土佐勤皇党による吉田東洋暗殺事件発生。
1863年(37歳)土佐勤皇党への弾圧を開始、土佐勤皇党を壊滅させる。
1867年(41歳)四侯会議に参加するが、薩摩藩主導体制に反発し欠席を続ける。
1867年(41歳)薩土同盟を結び、豊信は公武合体をめざす。
1868年(42歳)十五代将軍・徳川慶喜に「大政奉還」を建白。
1868年(42歳)内国事務総裁に就任。
1869年(43歳)内国事務総裁に辞任。
1872年(46歳)脳溢血で死亡。飲酒過多が原因。
山内豊信が目指した日本
幕末の四賢侯
山内豊信は吉田東洋を重用し、土佐藩の改革を断行した結果、
土佐藩は近代的な西洋式の軍備を備え、財政も健全化し人材の抜擢も進めました。
幕末、明治維新以降も土佐藩から多くの人材が輩出したのも、山内豊信の藩政改革ゆえでしょう。
幕末の四賢侯の一人とまで評価される名君といっていいでしょう。
・福井藩第十四代藩主 松平慶永
・宇和島藩第八代藩主 伊達宗城
・土佐藩第十五代藩主 山内豊信(容堂)
・薩摩藩第十一代藩主島津斉彬
幕府の存続を目指す
そんな山内豊信ですが、最後まで幕府の存続を目指します。
大政奉還を江戸幕府・将軍である徳川慶喜に建白するほどでした。
土佐藩が討幕に転じた中でも山内豊信は討幕に積極的ではなく、
戊辰戦争が始まり鳥羽伏見の戦いに土佐藩の兵士が上京したときも、戦闘に加わることを禁じていました。
しかし、土佐藩の兵士は山内豊信(当時、容堂)の厳命を破り戦闘に突入します。
もはや戦争の流れは藩主の命令でも制御できないところまで来ていたのです。
山内豊信は公武合体を目指し薩土同盟を結びました。
しかし、土佐藩内の討幕派を目指す藩士により薩土密約が結ばれ、
山内豊信の思惑とは離れ土佐藩も討幕勢力として官軍の一員となっていきます。
時代の流れが討幕というハードランディングの改革を目指す動きになっていきます。
徳川の政治勢力を中心に残すことを求める山内豊信は、酔っ払って重要な会議にでることもあり、徳川家擁護をアルコールの匂いのする怒声でまくしたてていたのです。
これでは、政治の流れを変えることはできなかったでしょう。
徳川家に恩義を感じ、藩主としては徳川家を最後まで擁護していましたが、
酒に溺れすぎて敵対勢力になかなか言葉が届かなかったのでしょう。
山之内豊信の目指した政治は、徳川家を有力な政治勢力として残した公武合体の雄藩政治連合だったのです。
関連記事 >>>> 「山内豊信(容堂)大政奉還を進言!?その経緯と意味とは?」
山内豊信のエピソードと伝説
山内豊信は、家臣にも大酒のみで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」 と揶揄され、西郷隆盛にも手に負えない酔っ払いのような評価をされています。
しかし、山内豊信は決してただの酔っ払いの大名ではありませんでした。
武芸百般の居合いの達人
大名は侍です。
当然、厳しい修行をしています。
中には病弱を理由にしてあまり武芸に励まない大名や侍もいましたが、基本的に侍とは軍人なのです。
山内豊信は政治的な能力だけでなく、武芸にも高い能力を持っていました。
軍学、弓術、馬術、槍術、剣術を収めますが、特に居合い術が得意であったと伝わっています。
土佐藩において上士の学ぶ剣法とされ、新撰組の斉藤一も使い手ではなかったといわれる無外流の剣術を極めました。
剣においては居合い術が凄腕と伝わっています。
政治の大局観を持って、酔っ払いで、大名で、居合いの達人――
多くのフィクションでも取り上げられるだけのキャラのたった人物です。
山内豊信は長谷川流の目録を18歳で得ています。
目録の種類には身分の高い人に形式的に与えるものもありましたが、どうも山内豊信は違うようです。
土佐藩士だった、自由民権運動で有名となる板垣退助が山内豊信の剣の修練の激しさについてこれる家来が二、三人だったと書きこのしています。
会議に酔っ払って参加しても、ちょっと注意しにくいですよね。
大名であると言うことを差し引いても――
酔えば勤皇、覚めれば佐幕
土佐藩が討幕に傾く中、山内豊信は最後まで「佐幕」を貫きます。
つまり江戸幕府を完全に打倒し、政治勢力として抹殺するのではなく、新政権の権力機構の中に取り入れていこうとしたのです。
これは、今の目から見ればかなり、合理的な考え方であるということもできます。
幕府は大政奉還をしていますので、もう大名の中のひとつにしか過ぎません。
しかし、今まで日本を統治し対外的な危機を乗り切ってきたのは、幕臣という名の官僚たちです。
このような徳川家の能力をうまく取り込み、ソフトランディングの改革を目指すのはひとつの方法であったかもしれません。
そして「勤皇」、「佐幕」は山内豊信の中では対立する考えではなく、
公武合体政策により両立できるものであったのではないでしょうか。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
山内豊信についていかがでしたでしょうか。
山内豊信とは?
① 幕末の四賢侯の一人とまで評価される名君
② 大酒のみで酒気帯びで会議に参加するほどだった
③ 文武両道で居合いの達人
③ 「尊王」、「佐幕」を両立させ、緩やかな改革を目指した政治家
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