彼女の手紙が問題なんです。
「彼女」とは、2度のアメリカ留学後、社会的地位の低かった明治の日本女性の高等教育のために尽力し、現在の津田塾大学を創設した津田梅子です。
2024年の新札改訂では新しい5000円札の顔として登場することが決まっています。
そんな彼女のある一通の手紙。
どんな内容で、どんな問題があるのでしょうか。
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梅子の手紙、その驚きの内容
問題の津田梅子の手紙は、1883年9月30日に、アメリカ留学時のホストファミリーだったランマン家宛てに書いた英語の手紙で、1回目の約10年間の留学から帰国後のことでした。
父親の津田仙が朝鮮から帰国し、朝鮮国内の様子を話して聞かせたことを手紙にしたものです。
津田梅子の朝鮮人に対する感想を記した手紙
少し長いですが、全文(翻訳)をご紹介いたします。
「父が帰ってきました。2、3日前に、思ったよりも早く着いたのです。朝鮮についてとても興味深くおもしろい話をしてくれました。いくつかの点では、動物の方がこのような汚い朝鮮人よりましだと思いますし、あるところには本当に野蛮な人びとがいるのです。彼らは衣服や食料はとてもよいのですが、粗末に不潔につくられているのです。家は掘っ立て小屋のようだし、妻たちは完全に奴隷か囚人のようです。寝食や労働のために一つの部屋からでることもせず、下層階級の人びとだけが日中、日光にあたるくらいのものです。…彼らの習慣は下劣で、何もかもが汚くそして粗野なのです。…父が私に朝鮮について多くのことを話してくれました。あなたの記事のために、聞いたことを書いてまとめたいと思います。きっと、とても関心をもたれると思いますので、書いたら送ります。ある意味で、世界で最悪の国のように思われます。日本で出会った朝鮮の人たちは、人間的にも精神的にも日本人の特徴ととても似ていて、善良で知的で頑強な男性に思われたのですが、どうして人間がそのようになれるのか驚きです。」
この文章を読んで、あなたはどう思うでしょうか。
随分とストレートな内容の手紙に驚くのではないでしょうか。
社会的に認められていなかった日本女性に、高等教育を受けるチャンスを与え、その地位向上に尽力した、あの津田梅子の言葉だとは信じがたいと思う方もいるかもしれませんね。
当時18歳だった梅子に、朝鮮人を見る「上から目線」が感じられます。
白人からの日本人差別に怒り、朝鮮人を見下した梅子?
実は、梅子はその手紙を書くより以前の3月18日に、同じライマン家へある怒りの手紙を送っています。
それは、米国人宣教師が日本人を見下していることについてでした。
梅子自身はアメリカ滞在中に洗礼を受け、敬虔なピューリタン(キリスト教のプロテスタント派)となっています。
その彼女は、言語、文化、宗教というバックグラウンドを共有しているはずの米国人宣教師たちの白人文化中心主義的な態度、そして日本人を本心では受け入れられていない様子に憤慨していました。
その点について梅子は何度もライマン家へ手紙を書いていたのです。
ところが、その梅子が朝鮮の人々に対しては、全て日本文化を基準にして見下げるような態度を取っていたわけです。
それなら、梅子の考えや活動と矛盾しているように見えると主張する人の言わんとすることも理解できそうではありませんか。
津田梅子の手紙を解釈する
梅子の矛盾を考える前に、まず彼女の思考に大いなる影響を与えていた2つの事柄についての理解が必要です。
まだ日本女性の立場や権利について考える以前の梅子だった
一つ目は、梅子のアメリカ留学は、
「明治政府による富国強兵政策の一貫のもので、女子教育推進のふりをしながらも実は都合のよい母親を創るための留学だった」
こと。
女性の社会的地位向上や権利を得ることを目的として派遣された留学生ではありませんでした。
おそらく梅子は帰国するまで日本人女性の地位について考えもしませんでした。
梅子の「女性の権利」への目覚めは、帰国後しばらくしてからです。
日本の生活の中で実情を見た梅子は、日本女性の立場のひどさに驚き、とまどいました。
その時初めて彼女が政府の意図した以上のことを悟ったのです。
知らぬ間に白人中産階級の考えを身に付けていた梅子
もう一つは、梅子のアメリカでのホストファミリーであったランマン家が「白人中産階級中心の教育観を持った家庭」だったこと。
黒人、アメリカ先住民や少数民族、労働者階級などを無視した考え方だったのは、白人中産階級では普通のことだったのです。
6歳からアメリカ生活を送っていた梅子は、留学中の10年間のうちに無意識に、もちろん悪意もなくランマン家と同じ「階級」「人種」に対する序列の考えを身に付けていったのかもしれません。
梅子の手紙が朝鮮へのヘイトであるとの誤解
津田梅子のこの手紙の存在を知る人は、その内容に驚いています。
ネット上では、梅子が朝鮮へのヘイトの感情があったのではないかという意見までありますが、そうでしょうか。
確かに、彼女の目線は「白人中産階級」から見た「下位」だとされる人々へのものに見えます。
しかし、彼女は現代のようなリベラルな考え方の社会とは違った時代に生きた人です。
当時の日本で海外留学もできるほど恵まれた立場にあり、アメリカの白人中産階級の家庭で育った女性です。
これらのことを考えると、梅子の手紙の内容は、「白人中産階級の女の子」が表わす初めて知った朝鮮の実情への素直な感想だったのではなかったでしょうか。
日本女性の権利や地位向上について深く考える以前の梅子の率直な気持ちだったと。
梅子はその後、津田塾大学を創設して女性の高等教育に情熱を注ぎ、女性の社会進出の手助けをしました。
ただしその時の彼女が、他種族の人々、恵まれない人々、またおそらく梅子の用意した高等教育にさえ手を伸ばすことのできなかった人々についてどのような考えを持っていたのかは、明確ではありません。
きょうのまとめ
今回は、津田梅子が残し論議を醸した手紙についてご紹介いたしました。
簡単なまとめ
① 津田梅子が一度目の留学後に書いた手紙は、彼女の差別的な視線が問題となっている
② 梅子は留学で白人中産階級中心主義に影響された考えを無意識に身に付けた可能性がある
③ 梅子の手紙の一種差別的に見える内容は、その時点の彼女の素直な感想であり、社会の不平等に対する考えを確立する前の段階のものであったと考えられる
社会の正義は時代によって変わり、人の心も気づきや他人からの影響によって移り変わります。
この手紙は、津田梅子が差別主義者だったというよりも、彼女の心が世界の事実を咀嚼しきれていないそんなプロセスを表わしているものだったのではないでしょうか。
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