東郷平八郎とはどんな人物だったのでしょうか。
私たちが考えているよりももっと、世界的に評価されている人なのかもしれません。
今回は東郷平八郎の生涯と有名なエピソードについて、簡単にご紹介していきます。
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東郷平八郎はどんな人?
- 出身地:薩摩国(現在の鹿児島県)
- 生年月日:1848年1月27日
- 死亡年月日:1934年5月30日(享年88歳)
- 明治から大正にかけて活躍した軍人。当時世界最強といわれたバルチック艦隊を壊滅させ、世界から注目された人物。
東郷平八郎 年表
西暦(年齢)
1848年(1歳)薩摩に生まれる。(幼名、仲五郎)
1863年(17歳)薩英戦争に参加する。
1868年(22歳)戊辰戦争に参加する。
1871年(25歳)イギリスに留学し、海軍技術や国際法などを学ぶ(~1878)。
1894年(48歳)日清戦争。高陞号事件を起こす。
1903年(57歳)連合艦隊司令長官に就任する。
1905年(59歳)日本海海戦で勝利する。
1913年(67歳)元帥となる。
1914年(68歳)宮御学問所総裁を務める(~1921)。
1934年(88歳)5月30日死去。6月5日国葬。
東郷平八郎の生涯を簡単にダイジェストで説明
東郷平八郎は、鹿児島藩士・東郷吉左衛門の四男として誕生しました。
初陣は薩英戦争(※)でした。
東郷平八郎はこのとき海防の重要性を知り、海軍を志すようになったそうです。
明治維新後は海軍の第1回留学生としてイギリスへ行き、海軍技術や国際法などを学びます。
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7年間の留学期間を終えて帰国すると、海軍中尉となりました。
日清戦争では「浪速」の艦長となり、高陞号事件が起きます。
こちらの事件については、下記で詳しくご紹介しますね。
その後、海軍大学校長や常備艦隊司令長官などを務め、日露戦争の前には連合艦隊司令長官に就任しています。
そして日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を全滅させ、その名を世界に知らしめました。
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大正時代に入ると東宮御学問所総裁、つまり昭和天皇の教育係に就任します。
大正天皇が東郷を敬愛していたためだそうです。
東郷平八郎はさらに昭和の時代に入っても、海軍の長老として絶大な影響力を持ちました。
1934年5月30日、東郷は病気でこの世を去ります。
そして翌月には国葬が行われ、軍神として神社に祀られることになりました。
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東郷平八郎にまつわるエピソード
近所には有名な歴史上の人物がたくさん
東郷平八郎が生まれたのは現在の鹿児島市加治屋町。
加治屋町はかつて薩摩藩下級武士の居住地だったため、のちに幕末から明治時代にかけて活躍する多くの人物を生み出しました。
東郷平八郎の生誕地の近所には、西郷隆盛・大久保利通・大山巌なども住んでいたそうですよ。
他にも近くには、内閣総理大臣や海軍大臣を務めた山本権兵衛の生誕地などもあります。
狭い地域から、こんなに偉人を輩出できた理由としては「郷中教育」が行われていたからと言われています。
郷中教育とは地域を「郷中」というグループに分け、そのグループの中で年長者が年少の者の面倒を見るという教育システムです。
これは薩摩藩独自の教育制度で、相撲や剣術から儒教の勉強まで学ぶことができたそうです。
郷中教育の効果がいかに高いものだったのかは、輩出した人材の多さからもわかりますよね。
高陞号事件とは?
高陞号はイギリスの商船ですが、日清戦争中、清国の陸軍兵を輸送していました。
それを発見した東郷率いる「浪速」。
高陞号は白旗を揚げていたものの、乗っていた清国兵はイギリス人船長を脅迫し、日本側に抵抗する姿勢を見せました。
そこで東郷は高陞号を撃沈する命令を出し、イギリス人船員のみ救助するという対応を行います。
東郷平八郎のこの判断は、イギリスにおいて日本批判を引き起こしてしまいます。
しかし、国際公法の権威であったイギリス人法学者が「判断は問題はない」という見解を示したことにより、事態は沈静化しました。
東郷平八郎はイギリス留学で学んだ知識を活かし、適切な判断を行ったということですね。
東郷平八郎の世界的人気はすごかった
東郷平八郎は世界三大提督の一人に数えられるなど、世界でも有名な人物です。
他にはイギリスのホレーショ・ネルソン、アメリカのジョン・ポール・ジョーンズがいます。
イギリスで東郷が紹介された際には「東洋のネルソン」と呼ばれたそうです。
この三人に共通しているのは、少ない戦力で強い敵を打ち倒したこと。
そのため、東郷も多くの軍人たちから尊敬されることになりました。
下記の記事にも書きましたが、アメリカのルーズベルト大統領も彼の演説を英訳した文章を配らせたほどです。
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さらに驚くことに、太平洋戦争ではアメリカの司令官として日本軍と戦った経験を持つニミッツ元帥もその一人でした。
日本海海戦で戦った戦艦「三笠」はその後、記念艦として横須賀に保存されていましたが、日本の敗戦後はソ連から解体の話が持ち上がります。
結局解体されずに済んだものの、メンテナンスがされていたわけではありませんでした。
一時期の三笠は、まるで幽霊船のようになっていたといいます。
そんな状況を憂いたニミッツ元帥たち米海軍。
日本人の有志たちとともに、「三笠」復活のために立ち上がります。
ニミッツは三笠復元のために資金を提供したり、空母の乗組員たちは塗装もしたとか。
そういった協力のおかげで、三笠は記念艦として復活を遂げました。
きょうのまとめ
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
今回は東郷平八郎について簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
東郷平八郎とは?
① 薩摩の加治屋町出身で、西郷隆盛や大久保利通らも近所だった
② イギリス留学で得た知識を活かして「高陞号事件」の対応にあたった
③ 東郷平八郎は日本だけでなく、海外の人気も高い
こちらのサイトでは他にも、東郷平八郎に関する記事をわかりやすく書いています。
ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね!
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