肺病のために若くして陣中で亡くなった
竹中半兵衛。
あまりにも早すぎる死を惜しまれましたが、彼には息子がありました。
そこから続く系譜は今も続いています。
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得月院をただ一人の妻として
竹中半兵衛の正室は得月院という女性です。
彼女についての詳細はよく伝わっていませんが、織田信長にも仕えた西美濃三人衆のひとり、安藤守就の次女です。
西美濃三人衆とは、美濃斎藤氏の有力な家臣だった
・安藤守就
・氏家直元
を指した総称です。
1573年には半兵衛との間に嫡男の竹中重門が生まれています。
半兵衛は側室を置かず、妻はこの得月院一人のみ。
この時代に側室を持たない戦国武将は珍しいことでした。
きっと仲の良い夫婦だったのでしょうね。
息子竹中重門のその後は?
まずは半兵衛亡き後、息子の重門はどうなったのでしょう。
元服時の烏帽子親は黒田官兵衛
黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉された際、
信長の誤解で殺される寸前だった官兵衛の息子松寿丸(のちの長政)の命を助けた竹中半兵衛。
半兵衛が早死にしてしまったせいで感謝の言葉を伝えられなかった官兵衛は、その恩を別の形で示します。
その後半兵衛の嫡子重門の元服の際には、烏帽子親を務めたのでした。
秀吉に仕える
重門は、父親半兵衛の従弟にあたる竹中重利の後見を受けて、父親半兵衛と同様に羽柴秀吉に仕えました。
1584年の小牧・長久手の戦いや、
1590年の小田原征伐などに従軍し、5000石を授けられています。
慶長の役で朝鮮へも渡り、戦功を挙げています。
関ヶ原では幼なじみの黒田長政とともに
関ヶ原の戦いでは最終的に東軍につき、
激戦地の本戦では幼なじみでもある黒田長政を助ける奮戦。
西軍の武将小西行長を捕縛するなど大功を挙げました。
その後の子孫から現代の竹中家まで
竹中家は1万石未満の旗本でしたが参勤交代を許されるという優遇を受けた家柄でした。
竹中家4代から14代
その後も竹中家の血は
・13代竹中重明
・14代竹中重固
まで江戸時代を通じて継続されます。
重固は勝海舟が幕府の海軍奉行として活躍していた同時期に長州征伐、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を率いた幕府陸軍奉行。
大政奉還後の戊辰戦争も会津、箱館五稜郭で官軍と戦火を交えました。
そして、その後も竹中家の系譜は続き、現代へと向かいます。
竹中家18代目の子孫
ひな人形や五月人形など伝統的な人形作りをされている人形師3代目の竹中重男(または幸甫)さん。
この人物こそ竹中半兵衛からの18代目の子孫です。
18代目重男さんの曾祖父が幕末の陸軍奉行だった竹中重固になります。
その重固の娘が重男さんの祖母・鶴さんです。
鶴さんが1892年に人形師の仕事を始め、竹中幸輔さんが受け継ぎ、重男さんの代となりました。
重男さんの妻である竹中温恵さんも人形作りをされています。
「鶴屋半兵衛」という屋号が人形作りの創始者と竹中半兵衛を彷彿とさせる屋号です。
間違えないで!竹中違い
歴史ファンの間で半兵衛もしくは竹中家の人物が、
現在の日本を代表する建設会社竹中工務店を作った人物ではないのかという話しがありますが、これは誤解です。
織田信長の普請奉行・竹中藤兵衛正高こそが竹中工務店の創始者。
竹中半兵衛と名前が似ており、しかも同じ主君をもつ別人物。
ちょっと紛らわしいですね。
城作りの盛んだった時代のいわば建設官僚でした。
武将から転身して名古屋で寺社仏閣の造営に携わるようになったのが竹中工務店のはじまりだそうです。
おわりに
竹中半兵衛は若くして亡くなりましたが、それで竹中家が終わったわけではありません。
息子の重門から子孫は絶えることなく、あの戦国時代から江戸時代、幕末の動乱に巻き込まれながらもその血は現代まで繋がっていたんですね。
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