甲斐源氏の棟梁として源頼朝に協力し、武家政権の成立に大きく貢献した人物
武田信義。
甲斐国(現・山梨県)を拠点としたその勢力は頼朝をも凌いだとされています。
しかし、鎌倉幕府においては、あくまで一御家人の地位に甘んじた信義。
いったいどんなどんでん返しがあったというのでしょう?
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、八嶋智人さんが配役に決定。
2004年の『新選組!』では、武田流兵学を学んだ隊士・武田観柳斎を演じていた八島さん。
今回も武田家にゆかりのある人物の役として抜擢されたわけですね!
放送に先駆け、信義がどんな人物だったのかしっかりおさらいしておきましょう。
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武田信義はどんな人?
- 出身地:甲斐国(現・山梨県)
- 生年月日:1128年9月11日
- 死亡年月日:1186年3月31日(享年59歳)
- 甲斐源氏の棟梁として、源平合戦で源頼朝を支えた。武田流兵学の開祖。
武田信義 年表
1128年(1歳)甲斐源氏の棟梁・源清光の子として生まれる。
1140年(13歳)武田八幡宮(現・山梨県韮崎市)にて元服。武田信義と名乗るようになる。
1180年(53歳)以仁王が出した平氏討伐の令旨を受け、甲斐国で挙兵。関東の平家方を破り、勢力を広げる。
1184~85年(57~58歳)源平合戦に軍を従わせ、鎌倉方の平氏討伐に協力する。
1186年(59歳)鎌倉方による嫡男・一条忠頼の暗殺などを受け、失意のうちに病没。
武田信義の生涯
武田信義の生涯について紹介します。
逸見光長は双子の兄
1128年、武田信義は甲斐源氏の棟梁・源清光の子として生まれます。
のちに鎌倉幕府御家人となる逸見光長は双子の兄。
信義が遅く生まれたため、通常は次男となるところですが、家督を継いだのは信義のほうでした。
この時代の双子には、”先に生まれたほうが長男”のような決まりがなかったため、単に身体の大きさなどでどちらを長男にするかを決められたという話です。
信義は武勇に優れた人物だったといい、体格もよかったのかもしれませんね。
甲斐武田氏の礎を築く
信義の動向を見ていると、戦国時代まで続く甲斐武田氏の伝統がこの時代に形作られたことがわかります。
甲斐源氏は、源頼朝の河内源氏から枝分かれした支流にあたり、頼朝と信義は遠い親戚の関係。
甲斐源氏の初代・源義光は、武田氏に伝わる大東流合気柔術の開祖にあたり、そのほかも武芸に秀でた人でした。
その流れを汲んだ信義は武田流兵学の開祖。
後世へと受け継がれたその流儀が、戦国武将・武田信玄の隆盛へとつながっていくのですね。
ところで、どうして甲斐源氏は武田氏を名乗るようになったのでしょう?
実のところ、甲斐源氏は信義の祖父・義清の代まで常陸国武田郷(現・茨城県ひたちなか市)を本拠にしていました。
義清は領地を巡った紛争に敗れて甲斐国へ配流となり、ここで武田姓を名乗るようになったといいます。
いずれかつての隆盛を取り戻して見せるという、義清の意志の表れだったのかもしれませんね。
信義は13歳で元服すると、幼名の勝千代、龍光丸から武田信義へと改名しました。
このとき元服の儀式を執り行った武田八幡宮は、以降、甲斐武田氏の氏神として祀られていくこととなります。
平氏討伐の挙兵
「平治の乱」で源氏を放逐して以来、朝廷での地位をほしいままにしていた平氏は、その横暴ぶりから後白河法皇と対立。
1180年になると、法皇の第三皇子・以仁王が平氏討伐の令旨を発しました。
これを受けて、伊豆に配流となっていた源頼朝が挙兵。
信義もほぼ時を同じくして挙兵することとなります。
圧倒的劣勢から始まった頼朝の挙兵に対し、信義には当初から勢いがありました。
挙兵直後、頼朝は「石橋山の戦い」で大庭景親に敗走しており、逃げ延びた頼朝の配下の多くを、信義が庇護しているんですよね。
また、信義の弟・安田義定は、この直後に、大庭の弟にあたる俣野景久を下していたりと、敗れてしまった頼朝をばっちりフォローしています。
頼朝が安房国(現・千葉県南部)で体勢を立て直そうと試みた折は、信義の協力を仰ぐべく、北条時政が甲斐国へ。
信義はその後、信濃国(現・長野県)伊那の平氏方や、駿河国(現・静岡県東部)目代などを下して勢力を拡大。
「富士川の戦い」で頼朝と共闘するにいたっています。
このときは源氏討伐にやって来た平氏勢が、頼朝と信義を合わせた兵数に恐れおののき、戦わずして敗走したという話。
信義は近江源氏ともつながりが深く、源平合戦において、西国の勢力を味方につけることにも一役買ったと見られています。
頼朝の快進撃に、信義との協力体制がなくてはならないものだったことがわかりますね。
幕府御家人の地位に成り下がる
このように源氏による平氏への反撃の狼煙が上がり、関東・北陸では主に源頼朝、義仲が勢力を強めていきます。
実のところ、信義も勢力的にはこの両者に匹敵するほどのものをもっていました。
しかし、自らをトップに国を治めようとした頼朝として、同じぐらいの力をもつ信義の存在は、協力者だとしても邪魔だとみなされます。
ここから頼朝はあれこれと理由をつけ、信義やその親族を排斥。
頼朝討伐の宣旨を取り付けようとした噂が流れ、頼朝が激怒。「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という誓約書を書かされる
・安田義定(弟)
頼朝と敵対関係にあった源義仲に従って入京。源平合戦では頼朝に味方したものの、その後謀反の疑いをかけられ処刑される
・一条忠頼(嫡男)
暗殺される。武蔵守を任されるなど、朝廷が頼朝への対抗勢力として忠頼を懐柔しようとしたため?
・板垣兼信(三男)
御家人・土肥実平の配下とされたことに不満を訴えるも、これを頼朝に退けられる
これらの政策で勢いを衰退させ、武田氏は甲斐源氏の棟梁から、幕府の一御家人へと地位を落としてしまうのです。
逆に、武田氏の一族でも早々に頼朝の配下へ下った加賀美遠光(信義の弟)は厚遇され、信濃守を任されていたり。
逆らえば失脚、従えば厚遇という上下関係をはっきりと示していますね。
歴史書『吾妻鏡』によれば、信義はこのあと、1186年、59歳で病没したという話。
ただ、その後も頼朝の上洛に従った、東大寺の造営に携わったなどの記録があり、その矛盾点が指摘されています。
早くに亡くなったことにされているあたりにも、ひょっとすると信義の功績を隠す目的があったのかもしれません。
きょうのまとめ
源平合戦において、源頼朝が平氏勢を圧倒する実力を身につけられたのは、ひとえに武田信義の協力があってこそ。
その功績があまり注目されていないのは残念ですね。
やはり、歴史は頼朝のような、時代の勝者によって残されるということでしょうか。
最後に今回のまとめ。
② 平氏討伐の令旨が下ると、甲斐国で挙兵。石橋山で破れた源頼朝の配下を庇護したほか、信濃や駿河の平氏勢を退けた。
③ 関東圏で頼朝と匹敵するほどの勢力を誇った信義は、その存在を頼朝に疎んじられた。結果、一族に排斥される者が続出し、御家人の地位に甘んじることとなった。
覇者にこそなれなかったものの、この時代において抜きん出た軍才を誇った武田信義。
大河ドラマでどのように活躍が描かれるのか、楽しみですね!
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