島津義弘|「鬼」と呼ばれた男の心優しいエピソード

 

薩摩の武将・島津義弘しまづよしひろは戦国時代に最も勇猛果敢な人物の1人といっても過言ではないでしょう。

九州で勢力を持っていた大友宗麟を打ち負かしたこの人物。

「鬼島津」とも呼ばれたこの武将はどのような人だったのでしょうか。

 

島津義弘の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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島津義弘に関する様々なエピソード

島津義弘

出典:Wikipedia

兄島津義久の補佐役として活躍する

この頃島津家には4人の兄弟がいました。

その中で群を抜いていたのが次男の義弘でした。

家督を継いだ兄義久を補佐役として支えながら、戦場においては総大将を務めます。

敵からは「鬼島津」と言われ恐れられたほどです。

木崎原の戦い

1572年九州の桶狭間と言われる木崎原の戦いでは、

3千の伊東義祐いとうよしすけの軍に対し、

わずか3百の兵で打ち勝つという素晴らしい戦いぶりを発揮し日向を領地に得ています。

耳川の戦い

日向から伊東義祐を追放した島津軍は、

1578年九州を統一しようとしていた豊後国の大友宗麟と戦います。

伊東義祐が大友家に身を寄せたからです。

大友氏は日向の島津軍を目掛けて侵攻して行きました。

しかしこの時、織田信長によって京を追われた足利義昭が毛利氏庇護ひごされていました。

そのため毛利氏が上洛しないのは「毛利氏にとって大友氏が脅威であるのが理由」と考えていた義昭は、島津に大友氏の毛利侵攻を止めるよう命令を出します。

大義名分を得た島津軍は北上を始め、耳川みみかわ付近に陣を敷いていた大友軍に襲いかかります。

前後左右に伏兵を置いた島津軍は一気に大友氏をせめました。

大友の兵は激流の耳川で溺れる者や、そこで島津の兵に打たれる者が続出して大敗を喫したのです。

これが「耳川の戦い」といわれるものです。

当の大友宗麟はさっさと逃げて、秀吉に泣きついたのでした。

朝鮮でも「鬼石曼子グイシーマンズ

「鬼石曼子」グイシーマンズとは文禄・慶長の役の時、中国人・朝鮮人は島津義弘の事を人はこう呼びました。

「グイ」は「鬼」の中国語読み、「石曼子」は「島津」を中国語の音であてたもので、「鬼島津」という意味になります。

豊臣秀吉の朝鮮出兵で島津義弘も朝鮮へ渡っています。

泗川しせんの戦いでは、朝鮮の兵20万人(数万から20万まで史料により諸説あります)に対し7千人の兵で打ち破ったそうです。

ここでも義弘は「鬼島津」だったようです。

関ヶ原での退き口

関ヶ原の戦いに臨んだ島津義弘は、四方を敵に囲まれ万事休すという状況に追い込まれます。

しかし甥の島津豊久の檄を受け、逃げ出す覚悟を決めます。

その時に島津がとった戦法は、捨て奸すてがまりといい、何人かが命がけで追っ手に食らいつきます。

そしてその命果てるまで足止めをし、

それがかなわない時は次の何人かで同じように命をとして足止めをし、大将を逃すというものでした。

この戦法によって島津軍は島津豊久をはじめとする勇猛な武将を犠牲にしてしまいます。

しかし、追って来る井伊直政に重傷を与え松平忠吉にも負傷させるという活躍ぶりでした。

命がけの武将たちの強さがありありと見られた戦いでした。

薩摩に戻った義弘は、徳川との和平交渉をしています。

なんと仲介役に依頼したのは、島津家が重傷を負わせた井伊直政でした。

直政は徳川と島津のために奔走してくれたそうです。

戦場を離れれば、敵でも味方でもないお互いが認め合える時代だったのですね。

家臣に優しい義弘

ではなぜ、家臣達は自分の命を賭してまで義弘を逃したのでしょうか。

「鬼」と呼ばれた義弘でしたが、大変な家臣思いだったことが一つの理由ではないでしょうか。

朝鮮に出兵した際も、囲炉裏端で家臣たちの足を温めさせ、当時凍死する兵が多かったと言われる朝鮮でも島津家の家臣にそのようなものは1人もなかったと言います。

またある日小姓たちが、火鉢で遊んでいましたが、義弘が部屋に入ると慌てて火箸を灰の中に落としてしまいます。

義弘はそれをとがめもせず、素手で火箸をすくい灰の中に突き立てたそうです。

家臣が心配すると、

姓はいたずらで手を焼かせる

といっただけでしたがその手は真っ赤に焼けていたそうです。

妻子思いの義弘

義弘は側室を持ちませんでした。

朝鮮からも愛妻に手紙を送ったりしています。

関ヶ原で命からがら脱出した時も、大坂で人質になっている妻子らを救出に向かったと言います。

「鬼」とはかけ離れた一面ですね。

 

きょうのまとめ

島津義弘についていかがでしたでしょうか。

島津義弘とは?

① 兄義久を支えた島津4兄弟の次男

② いい継がれる「島津の退き口」

③ 家臣思いの「鬼」

④ 愛妻家であった「鬼」

島津を逃した徳川家康は、腹の底では島津を憎みながら表向きは御構い無しとしています。

しかし家康の遺言は、薩摩を見張るから自分の亡骸を薩摩に向けて葬るように言ったそうです。

家康は江戸の世で安泰となった徳川の行く末に「島津の影」が恐怖だったのかもしれません。

それほど島津義弘は本当に強かったんですね。

強さと優しさをあわせもった島津義弘と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても島津義弘にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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