幕末~明治の世において、斬新な演目を次々に生み出し、落語界を最盛期へと導いた
三遊亭圓朝。
彼の生涯を辿ってみると、伝わってくるのはいかにも天才の感性で、
「落語をするために生まれてきた人というのは、こういう人のことをいうのだろうな」
といった感想を覚えます。
現代に続く落語の基礎を築いた三遊亭圓朝とは、いったいどんな人だったのか。
今回はその生涯を辿っていきましょう。
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三遊亭圓朝はどんな人?
- 出身地:江戸湯島切通町(現・東京都文京区)
- 生年月日:1839年5月13日
- 死亡年月日:1900年8月11日(享年61歳)
- 幕末~明治において、落語を最盛期へと導いた天才落語家。いわゆる笑いを狙った落語ではなく、怪談や人情噺などで客を惹きつけていた。
三遊亭圓朝 年表
西暦(年齢)
1839年(1歳)江戸湯島切通町(現・文京区)にて落語家・初代橘屋圓太郎の息子として生まれる。
1845年(6歳)江戸橋の寄席・土手倉にて初高座を務める。
1847年(8歳)父・圓太郎が師事していた三代目三遊亭圓生の弟子になる。
1851年(11歳)浮世絵師・歌川国芳に弟子入りする。
1855年(15歳)三遊亭圓朝を名乗り、真打に昇進する。
1858年(18歳)鳴り物や大道具を使った芝居噺のジャンルを開拓し始める。
1872年(32歳)道具を使わない素噺に芸風を変更。
1875年(35歳)落語睦連の相談役に就任。
1886年(46歳)政治家・井上馨のお供として北海道視察に同行。
1889年(49歳)師・三遊亭圓生の追善供養のため、向島の木母寺に三遊塚を建立。『三遊亭圓朝子の傳』という自伝を出版する。
1891年(51歳)寄席の主人との不和を原因に高座を退く。
1897年(57歳)弟子の勧めで再び高座に上がる。
1899年(59歳)病気を患い高座を引退する。
1900年(61歳)進行性麻痺・続発性脳髄炎により死没。
三遊亭圓朝の生涯
1839年、三遊亭圓朝は落語家の初代橘屋圓太郎の息子として、現在の文京区にあたる江戸湯島にて生まれました。
落語が身近にある環境を過ごした幼少時代
父親が落語家ということで、幼少から落語が身近にある環境で過ごした圓朝は、6歳のころには早くも高座に上がり、落語を演じています。
こう聞くといかにも代々続いてきたサラブレッド家系のようなイメージを受けますが、実はそうではありません。
父の圓太郎はそもそも農民から落語家へと身を起こした人物。
そのため落語の師匠と呼ぶには至らず、圓朝は8歳のころに圓太郎の師匠である三遊亭圓生に弟子入りしています。
父親との関係が兄弟弟子というのもなんか変な感じですが…。
師匠から疎まれたことをきっかけに新しいスタイルを開拓
父親が師事していた縁から、三遊亭圓生の弟子となった圓朝。
実のところその才能は師匠をも凌ぐほどのもので、圓生は寄席にて圓朝の落語が自分より受けていることを妬んでいたといいます。
そこで圓生はあろうことか、圓朝の妨害行為に出るのです。
落語はお笑い芸人のネタのような感じではなく、古来より演じられている演目を話す伝統芸能の傾向が強い芸事。
圓生はその特性を利用し、圓朝が行うであろう演目を自分が先にやってしまうという妨害に出たのです。
せっかく準備してきたものを先取りされてしまってはほかの演目をやらざるを得ませんが、急ごしらえの演目では、さすがの圓朝でもうまく演じることができません…。
しかし圓朝はなんと、この逆境をきっかけに落語の新しいスタイルを確立していきます。
と考え、伝統的な演目ではなく、自身の新作を次々と話すようになるのです。
ちなみにこんないびりの経験を持ちながらも、師匠が没したあとには供養のために流派を祀る三遊塚を建立するなど、三遊派の総帥としての務めを立派に果たしていきます。
いくらいじめられても、落語を教えてもらった恩に変わりはないということでしょうか。
なにより、三遊亭の名が現代まで受け継がれていることが、一番の師匠孝行だといえますね。
斬新な手法で後世のスタンダードを次々に創出
圓朝が生み出した演目は
・『牡丹灯籠』
・『怪談乳房榎木』
など、後世の落語界でスタンダードとなっていく演目が軒を連ねます。
圓朝の落語は、鳴り物や大道具を用いる音楽的なアプローチを取り入れた点でも斬新で、のちの落語界に与えた影響は計り知れません。
さらに後年はその技法を弟子に譲り、自身は道具を一切使わない素噺へとさらにスタイルを変えていきます。
このころ生み出した作品だと『人情噺文七元結』などが有名ですね。
幕末~明治の世において落語を最盛期に導いたとされるその名に恥じず、絶えず新しいことに挑戦していく人物だったのです。
絵画や海外文学への興味
圓朝は11歳のころ、浮世絵師の歌川国芳にも弟子入りしています。
これはもちろん絵の勉強をするため。
実際、圓朝は絵師になったわけではありませんが、その経験は落語にしっかりと活かされています。
圓朝の落語の代表作には怪談が多く、その題材となったのは彼が集めていた幽霊画だったというのです。
今でも圓朝が集めていた幽霊画は、その墓所がある台東区の全生庵に所蔵されており、毎年8月に開催される「圓朝まつり」にて見ることができます。
また海外文学を落語に取り入れていた点も、圓朝の興味の幅広さを表す要素でしょう。
定番の演目となっている『死神』は、グリム童話に収録されていた『死神の名付け親』を翻訳したもの。
このほか、20世紀イタリアにてオペラ化もされたヴィクトリアン・サルドゥの戯曲『トスカ』を翻訳した『錦の舞衣』など、さまざまなところからネタを引っ張ってきています。
芸事をする人はアイデアを生み出すために常にアンテナを張り巡らせているものですが、圓朝ほど徹底してこれを行っていた人がどれほどいるでしょうか。
大物政治家とのコネクション
圓朝を語る上で欠かせないエピソードは、その人脈の広さにもあります。
特に晩年は、明治維新にて勝海舟・高橋泥舟と並ぶ功績を残し「幕末の三舟」と名高い山岡鉄舟、第一次~三次伊藤内閣にて数々の大臣を歴任した井上馨など、名立たる政治家と交友を交わしています。
圓朝はおしゃべりのプロのなかでも伝説級の人なわけですから、こういった有名政治家にも、「仲良くなりたい」「話していると楽しい」と思わせる魅力があったのでしょうね。
圓朝と井上馨の交友があった1800年代後半は、日露戦争の脅威に備え、政府が北海道の開拓に力を入れていた時代で、実はこのころに圓朝も井上の北海道視察に同行しています。
なんで落語家が…?
井上からすれば、圓朝は政務に携われるほどの知性をもち合わせた人物だということなのかもしれません。
きょうのまとめ
その才能豊かさゆえ、師匠からも高座を邪魔されてしまったいきさつをもつ三遊亭圓朝。
彼は妨害さえも追い風にして、斬新な演目を次々に生み出していきました。
真の才能の前には、他人の妨害など無意味。
圓朝の成功を目の当たりにすると、そんな風に感じさせられますね。
最後に今回のまとめです。
① 三遊亭圓朝は、用意した演目を先取りするという師匠のいじめをきっかけに、自作の演目を作り出すようになった。
② 音楽的なアプローチや西洋文学の要素なども取り入れた斬新な手法が、現代の落語にも多大に影響を与えている。
③ 圓朝は井上馨など、大物政治家との交友も深い。政務に携わってもおかしくないぐらいの知性をもっていた?
圓朝の生きた幕末~明治にはその伝統もすっかり確立されていたわけですが、彼の存在がなければ、現代でもここまで落語が愛されている事実はなかったかもしれません。
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