真田昌幸とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

戦国時代において、武田信玄・豊臣秀吉など、名立たる名将から重用された武将

真田昌幸さなだまさゆき

その知将ぶりは武士道の精神からは一線を画すもの。

昌幸は主君への裏切りを繰り返し、所領を守ってきた武将です。

どういった背景が、彼をこのような行動に走らせたのか。

真田昌幸はいったいどんな人物だったのか、非常に気になるところです。

今回はその生涯から、昌幸の人物像を探っていきましょう。

 

真田昌幸はどんな人?

プロフィール
真田昌幸

真田昌幸像
出典:Wikipedia

  • 出身地:信濃国小県郡ちいさがたぐん(現・長野県東御市)
  • 生年月日:1547年
  • 死亡年月日:1611年7月13日(享年65歳)
  • 真田家の存続のため、ときに主君をも手玉に取った知将。徳川家の上田城攻めを、劣勢ながら二度も屈服させた戦歴をもつ。

 

真田昌幸 年表

年表

西暦(年齢)

1547年(1歳)武田信玄の家臣・真田幸隆さなだゆきたかの三男として生まれる。

1553年(7歳)武田家への人質となり、甲斐国かいのくに(山梨県)に降る。

1560年頃(14歳)武田信玄の親戚筋・武藤家の養子となる。同時期に足軽大将を務めるように。

1569年(23歳)対北条氏の三増峠みませとうげの戦いに出陣。先陣への伝令役を務め、北条軍との戦いでは一番槍を買って出た。

1572年(26歳)対徳川家の西上作戦・三方ヶ原の戦いに出陣。

1575年(29歳)織田・徳川連合軍との長篠の戦いで兄の信綱、昌輝が戦死。真田家の家督を継ぐことになり、信濃の戸石城を居城とする。

1580年(34歳)武田勝頼の命で北条領の上野国こうずけのくに(群馬県)へ侵攻し、名胡桃城なぐるみじょう・沼田城・小川城などを制し、東上野を手中に入れる。

1582年(36歳)織田・徳川連合軍により武田家が滅亡し織田家に仕える身となるが、本能寺の変にて信長が亡くなり独立。沼田領を巡って上杉家・北条家・徳川家を渡り歩く。

1585年(39歳)北条氏との和議の条件として沼田領を引き渡すよう、家康から求められるも拒否し、対立。上杉家に降り、上田合戦で徳川・北条軍を破る。そののち豊臣家に臣従。

1589~1590年(43~44歳)豊臣秀吉により、北条家との沼田領の裁定が行われるが、北条家がこの事例に違反。小田原征伐にて北条家を下し、秀吉から旧領を安堵される。

1592年(46歳)秀吉から500人の兵を任され、名護屋城に陣を構える。翌年、伏見城の築城に携わり、これらの功績から豊臣姓と伊豆守護の座を与えられる。

1600年(54歳)関ケ原の戦いにて、石田三成からの書状をきっかけに西軍(反徳川)に参加。上田城籠城戦にて徳川秀忠軍を圧倒する働きを見せる。しかし西軍が敗北し、紀伊国きいのくに高野山への蟄居(謹慎)を命じられる。

1611年(65歳)流人として10年間、息子の信之らから援助を受けながら過ごすも、1611年6月4日病死する。

 

真田昌幸の生涯

1547年、真田昌幸は武田家家臣・真田幸隆さなだゆきたかの三男として生まれました。

幼名は源五郎。

真田家には兄がふたりいたため昌幸は家督を継げる立場にはあらず、7歳のころに人質として甲斐国の武田信玄の元へ送られます。

これは父・幸隆が信玄への忠誠を示すための行動ですが、人質とは名ばかり。

信玄に気に入られた昌幸は、信玄の側近である奥近習六人衆おくきんじゅうろくにんしゅうのひとりに数えられ、大変重宝されました。

武田信玄の側近として活躍

信玄に仕えると、昌幸は信玄の母方の支族・武藤家の養子となり、名を武藤喜兵衛むとうきへえと改めます。

同時に足軽大将を務めるようになり、騎馬15騎、足軽30人を束ねる立場に。

北条家との「三増峠みませとうげの戦い」、

徳川家との「三方ヶ原の戦い」

など、戦場での経験も積み、信玄の評価も重臣のそれに匹敵するものとなっていきます。

有名な逸話は武田家が伊豆国の韮山城にらやまじょうを攻めたときのこと。

北条氏政が援軍を向かわせているという情報が伝わり、信玄はこれを迎え撃つことに勢力を傾けると主張します。

しかし慎重派の家臣から

「もう少し状況をじっくり見極めるべきでは…」

という声が上がります。

すると信玄は

信玄
私の両目とも呼べる者を物見に向かわせているので、間違いない

と反論しました。

このとき信玄から自分の両目に等しいと称されたのが、奥近習六人衆のひとりである曽根昌世と、真田昌幸だったのです。

幼少から信玄の側に仕えた昌幸は、戦略や勢力を信玄から直に学んでいたといわれています。

このころはまだ20代前半ですが、武将としてすでに相当な実力を身につけていたのでしょうね。

のちに主君への裏切りがお家芸のようになってくる昌幸ですが、武田家への忠誠は本物。

次男には信玄の弟である武田信繁のぶしげと同じ、信繁という名前を付けています。

兄ふたりの死によって真田家の家督を相続

1573年になると、主君の武田信玄が病死。

昌幸はそのまま、家督を相続した武田勝頼に仕える身となります。

それだけでなく、この時期には昌幸の人生のターニングポイントとなるような出来事がもうひとつ起こりました。

1575年のこと、織田・徳川連合軍との長篠の戦いにて、長兄の信綱、次兄の昌輝が亡くなってしまうのです。

真田家では昌幸だけが勝頼の側近として側に置かれていたため、この難を逃れたのでした。

こうして昌幸は真田家の家督を相続することになり、信濃の真田領を所領に、名前も武藤姓から真田昌幸へと改名

約20年ぶりに信濃へと戻ります。

しかし同時に勝頼の側近であることは変わらず、この時期の昌幸は甲斐と信濃を行ったり来たり、相当にせわしなく動き回っていたのだとか。

さらにこの時期は沼田城・名胡桃城なぐるみじょうなど、東上野への侵攻も成功させ、所領を大きく増やしています。

急遽巡ってきた家督相続にも一切ひるまず真田家を発展させ、同時に勝頼の側近としての役目もしっかりこなしていたわけですね。

知将ぶりを発揮した天正壬午の乱

1582年になると、力を大きくつけた織田・徳川連合軍により、武田家がついに滅亡に追い込まれます。

主君を失くした昌幸は織田家に迎え入れられ、重臣・滝川一益たきがわかずますに仕えることになります。

しかし、その3か月後に起こった本能寺の変にて、今度は織田信長が亡くなってしまうのです。

すると主君を失った織田家の家臣たちは旧武田領を手放して逃走。

この領地を巡って、徳川・上杉・北条が熾烈な争いを繰り広げる天正壬午の乱てんしょうじんごのらんが勃発します。

一連の騒動で昌幸も自由の身となったわけですが、ここからの行動が、彼が知将と呼ばれるゆえんです。

勝頼の代に受け継いだ真田領をなんとしても守りたいと考えた昌幸は、ここから2年のあいだにこれでもかと主君をとっかえひっかえします。

・信濃の長沼城に入り、上杉家についたかと思えば、北条家に寝返る

・信濃を離れ、上野の沼田城に移ると今度は徳川家に寝返る

・徳川と北条の和議のため沼田を割譲するよう迫られ、上杉家に寝返る

というように、少しでも立場の強い者を見定め、臨機応変に立ち振る舞いを変えていくのです。

ここまでしていれば、裏切者としてかなり警戒されるような気がしますが、そこは昌幸の立ち回りが上手かったのか、旧武田領を巡る混乱のなか、どの勢力も判断力を欠いていたのか…。

この立ち回りを見た石田三成は、昌幸を

三成
表裏比興ひょうりひきょうの者

と称しました。

比興は卑怯という意味ですが、悪口ではなく要注意人物ということで、三成が昌幸に一目置いていたことを表します。

そして昌幸は立ち回りが上手いだけでなく、戦の腕前もたしかでした。

1585年には、真田領を狙った徳川・北条の連合軍が侵攻してきますが、昌幸は上田城に籠城し、7000人の敵軍を2000人で大敗させています。

いつ裏切るかわからないうえ、堂々と戦っても無類の強さを誇る。

主君から扱いづらいと思われることも多かったのではないでしょうか。

豊臣政権での出世

豊臣秀吉

信長亡きあとの世は豊臣秀吉の天下。

ここでも立ち回りのうまい昌幸は、秀吉配下の上杉景勝を通じて、豊臣家の家臣となります。

といっても、上杉がすべてお膳立てしたわけではなく、昌幸が直接秀吉に謁見してのことなので、ここではズルイことはしていないんですよね。

このとき秀吉が兼ねてから取り合いになっていた真田領の裁定を行い、北条家との内訳が決められます。

しかしこれを北条サイドがすぐに破り、真田領の名胡桃城に侵攻しようとしたことから、1890年の小田原征伐に発展。

秀吉から命を受けた昌幸は、前田利家・上杉景勝ら豊臣家重臣とともに、上野の北条領を次々に落としていきます。

この功績から昌幸は信濃・上野の真田領を秀吉から安堵されることに。

秀吉のこの計らいは、同時に関東へと所領を移した徳川家康をけん制する意味もあったといわれています。

このあと秀吉は1592年、朝鮮半島へ侵攻する文禄の役ぶんろくのえきへと踏み込んでいきますが、昌幸はこれへの出仕は命じられておらず、代わりに秀吉の隠居城である伏見城の築城を任されていたようです。

1594年には、豊臣姓と伊豆守護の座も与えられていますね。

関ケ原の戦い

1598年になると豊臣秀吉が亡くなり、豊臣政権で重役を務めていた徳川家康が権力を強めてきます。

このことが元来の豊臣家重臣たちに反感を買うわけですが、当初の昌幸は一応、家康に従う動きを見せていました。

ただ、1600年を境に石田三成が家康の弾劾を諸大名に訴え始め、昌幸の元にも書状が届きます。

このとき、昌幸自身は三成側の西軍に参加する意思を示します。

問題となったのは長男の信幸でした。

信幸の妻・小松姫は徳川家家臣・本多忠勝の娘で、その姻戚関係を思うと裏切ることはできません。

こうして

・昌幸と次男の信繁は西軍

・長男の信幸は東軍

という形に、真田家が分裂することになるのです。

かくして西軍として関ケ原の戦いに臨むことになった昌幸。

本戦前には、徳川家三男の秀忠軍が上田城へと攻めてきますが、ここでもかつて徳川・北条軍を迎え撃ったときのように籠城作戦を展開し、秀忠を撤退させています。

このときは秀忠38,000に対し、昌幸はたったの2,000人。

本戦では西軍が敗れたものの、昌幸の数をものともしない知将ぶりはいかんなく発揮されたわけですね。

流人として過ごした晩年

関ケ原の戦いに敗れた昌幸は、当初は処刑される予定でした。

しかし、東軍についた長男の信幸、本多忠勝の嘆願により、紀伊国きいのくに高野山への蟄居ちっきょ(謹慎)に減刑されます(のちに九度山へ移動)。

このとき信幸は家康から、

家康
父譲りの幸の名を名乗るな

と命じられ、信之に改名させられています。

当たり前ですが、完全に罪人扱いですね…。

昌幸は蟄居期間を信之らの援助を頼るものの、生活は貧困を極め、援助を催促する書状も幾度となく送られていたのだとか。

一度負ければあっという間にここまで転落してしまう戦国の世…世知辛い。

信之を通じて武士の地位に戻ろうともしますが、それも叶わず。

こうして10年ばかり続いた蟄居期間の末、すっかり意気消沈した昌幸は病を患い、65年の生涯に幕を下ろすのです。

信之との交流が生涯途切れることはなかったということが、せめてもの救いでしょうか。

 

きょうのまとめ

幼少から武田信玄の側についたことで力を蓄え、当時屈指の知将ぶりを発揮してみせた真田昌幸。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 幼くして武田家の人質になるが、信玄に気に入られ、側近として活躍した。

② 天正壬午の乱では、徳川・北条・上杉と主君を乗り換え、立ち回りの上手さから「表裏比興の者」と称される。

③ 関ケ原の戦いでは西軍につき敗北するが、徳川秀忠の圧倒的大軍を撤退させる知将ぶりを見せた。

やはり目玉は主君を次々に乗り換えた天正壬午の乱ですが、主君への裏切りの先にあったものは、いつも真田家の存続でした。

武士の社会は家柄がすべてといって過言ではなく、ときに卑怯と揶揄される昌幸の行動もまた、家系を守るため必死にあがいた結果なのです。

敗北を喫した関ケ原の戦いにしても、息子の信幸が東軍につくのを認めたことが、結局は真田家の存続につながっています。

こう見ると昌幸は生涯においてその意志を完遂させたことになりますね。

 

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