18世紀後半に勃発したフランス革命。
その中でも「恐怖政治」を行った人物として知られる、
ロベスピエール。
勤勉でまじめ、人々から支持を得た彼でしたが、急進的すぎる革命政治によりやがて自らその身を滅ぼすこととなりました。
ロベスピエールとは一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は彼の生涯について、主な功績やエピソードと共に見ていきましょう。
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ロベスピエールはどんな人?
- 出身地:フランス アラス
- 生年月日:1758年5月6日
- 死亡年月日:1794年7月28日(享年36歳)
- フランス革命ジャコバン派の指導者。政治家、弁護士。
ロベスピエール 年表
西暦(年齢)
1758年(0歳)北フランス、アルトワ州アラスで誕生。
1769年(11歳)奨学金を得てパリのルイ大王学院に入学。思想、法律などを学び、ラテン語では最優秀学生となる。
1780年(22歳)パリ大学卒業。
1781年(23歳)アルトワ州の高等法院で弁護士活動を開始。
1784年(26歳)アカデミー懸賞論文に応募し受賞。
1789年(31歳)三部会アルトワ州第三身分代表に選出される。ジャコバン・クラブに入会。処女演説を行う。
1791年(33歳)選挙権制限に対する反対演説、戦争反対に対する諸演説を行う。
1792年(34歳)パリ・コミューン代表として立法議会と対立。国民公会パリ選出議員になる。12月、国王処刑に対する要求演説を行う。
1793年(35歳)他派に対する人民蜂起を組織。公安委員会の委員になる。革命政府について演説を行う。「恐怖政治」の開始。
1794年(36歳)最高存在について演説を行う。7月27日、クーデターにより逮捕される。翌日、ギロチンにより処刑される。
ロベスピエールの生涯
ここからは早速、ロベスピエールの生涯について主な功績と共にご紹介していきます。
誕生~弁護士時代
フランス北部、アルトワ州のアラスに誕生したロベスピエール。
一家は代々州の評議会委員を務める等、優秀な弁護士を生み出す家系でした。
平民、つまり第三身分の息子でありながらも裕福な家庭に育ったロベスピエール。
しかし彼を出産したことが原因で母親が亡くなり、後に父親が失踪。
幼くして孤児となったロベスピエールでしたが、彼の勤勉さが自身を救っていきます。
11歳の頃には奨学金を受けてパリのルイ大王学院に入学。
思想や法律について学び、ラテン語でも優秀な成績を修めています。
その後、パリ大学で法学の修士号を取って弁護士資格も取得すると、故郷のアルトワ州で弁護士として活動しました。
政界進出
ロベスピエールが政界に進出したのは30歳を迎える頃。
弁護士時代の活動が認められた彼は、三部会のアルトワ州第三身分代表として選ばれたのです。
ちなみに三部会とは、課税を巡る身分制議会のこと。
第二身分 → 特権階級(貴族等)
第三身分 → 平民
となります。
パリに戻ったロベスピエールが参加した1789年5月の三部会は、国家財政の深刻な状態を解決するために開かれたものでした。
しかしこの三部会では、意見の対立によって第一身分、第二身分vs第三身分の構図が出来上がってしまいます。
そしてロベスピエールたち第三身分が三部会から決別。
独自の憲法制定議会、すなわち国民議会を発足させたことで、後のフランス革命へと繋がっていったのです。
政治家に転身したロベスピエールはジャコバン派(その中でも急進的共和派の革命集団、山岳派)に属し、頭角を現していきます。
彼の思想の根底には平等の理念があり、誰もが権利と富を保障されるべきであると考えていました。
他にも、
・初期には「死刑廃止法案」の提出
・選挙権制限への反対演説
等の活動もしています。
「恐怖政治」の加速
ロベスピエールは、1793年を迎える頃にはパリ市民からの指示を受けて穏健派に勝利し、ジャコバン派の独裁政治を確立します。
ジャコバン派が掲げた政策は、
・最高価格令(物価の統制)
・徴兵制(中世の傭兵制度に代わる国民軍)
・革命暦(非キリスト教化政策の一環)
等、まさに革命と言えるような政策を打ち出していきました。
しかしその後、王党派や反革命派からの報復を阻止し、革命を防衛する目的としてロベスピエールは厳しい取り締まりを開始。
この年に、国王ルイ16世と王妃のマリーアントワネットが処刑されたことも相まって、フランス革命における血の粛清が始まったのです。
他派に属している者に限らず、上記した政策に対して違反した者たちも、反革命派とみなして次々と処刑。
ロベスピエールの独裁政治は、徐々に人々の反発を強めていったのでした。
そして1794年7月27日。
ロベスピエール含めた彼の一派は、反ロベスピエール派によって逮捕されます。
この時期はちょうど、周辺諸国との対外戦争が好転して国内状況が落ち着きを取り戻し始めた頃のことでした。
彼等が逮捕された事件は一般的に、「テルミドール9日のクーデター」と呼ばれています。
ちなみに、この名前の由来は革命暦から来ています。
そしてその翌日の28日、ロベスピエールは腹心として最後まで共に活動していた
・ジョルジュ=クートン
等と共に、革命裁判にかけられる間もなく処刑されました。
ロベスピエールにまつわるエピソードや伝説
ここではロベスピエールの人物像を探るべく、彼にまつわるエピソードをご紹介していきます。
ルソーの影響
先程もご紹介した通り、恐怖政治に至る前、政治家として活動を始めて間もない頃のロベスピエールは、誰もが平等な権利と富を得られる社会を目指していました。
彼のこの思想の原点は、ルソーに由来するものと言われています。
ロベスピエールは、ルイ大王学院時代にルソーの著作に触れ、彼の万民平等を謳った思想に深い感銘を受けました。
そしてそれは、自身の政治活動を行う上での核となって生涯抱き続けることになったのです。
しかし皮肉なことに、時代の波は思わぬ方向へと彼を押し進めることになったのでした。
ひたすらまじめ
ロベスピエールの性格について挙げられるのは、彼がとてもまじめな人物だったということ。
「恐怖政治」という印象が強すぎて、歴史上の悪役としての立ち位置に置かれることの多い彼ですが、実際にはまじめが過ぎた性格だったと言えます。
幼い頃に孤児となってからも実直に勉学に励み、ルソーの思想に感化され、その実現のためにひたすら突き進む。
その真っ直ぐな性格は、しばしば周囲に清廉な人というイメージを持たれていました。
そして頭が良くて理想に向けて前だけを見る彼は、ユーモアの通じない堅物としても知られていました。
きょうのまとめ
今回はフランス革命時のジャコバン派を代表する指導者、ロベスピエールについて、その生涯と主な功績をエピソードと共に探っていきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ロベスピエールとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 18世紀後半、フランス革命時に活躍した平民出身の革命政治家。
② 急進的な共和制政治を目指したジャコバン派(山岳派)を率いた。
③ 過激な粛清を伴う独裁政治は、「恐怖政治」として知られている。
理想の社会を実現するための活動が、それに固執するあまり自らをも滅ぼすことになる。
多くの人々にとって良いと思える社会を目指すことは、一筋縄ではいかないということを、ロベスピエールの生涯からは学べるような気がします。
上に立つ者ほど、足元を見失わないように、小さな声を聞き逃さないようにしなければならないのです。
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