尾高長七郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

大河ドラマ『青天を衝け』にて、満島真之介さんが配役を務める

尾高長七郎おだかちょうしちろう

渋沢栄一の従兄で、無類の強さを誇る剣術使いです。

その生涯は33年と短いものでしたが、明治期まで彼が生きていたら、栄一に負けないほどの活躍をしていたかも。

そのぐらい、才能にあふれた人だったんですよね。

尾高長七郎とはいったいどんな人物なのか。

今回はその生涯に迫ります。
 

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尾高長七郎はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:武蔵国榛沢郡下手計はんざわぐんしもたばか村(現・埼玉県深谷市下手計)
  • 生年月日:1836年
  • 死亡年月日:1868年12月31日(享年33歳)
  • 「北武蔵の天狗」と呼ばれた剣豪。老中襲撃事件「坂下門外の変」の画策に加わった。渋沢栄一の従兄。

 

尾高長七郎 年表

年表

西暦(年齢)

1836年(1歳)武蔵国榛沢郡下手計はんざわぐんしもたばか村(現・埼玉県深谷市下手計)にて、豪農・尾高勝五郎の次男として生まれる。

1852年?(17歳?)江戸へ修行に出る。儒学者・海保漁村かいほぎょそん、心形刀流9代目・伊庭秀俊いばひでとしらに師事。

1861年(26歳)「桜田門外の変」の計画に参加。兄・尾高惇忠の制止により、途中離脱する。

1862年(27歳)「桜田門外の変」勃発。嫌疑を逃れるため、信州、京都と潜伏生活を送る。

1863年(28歳)下手計村へ帰郷。尾高惇忠、渋沢栄一の攘夷じょうい計画を阻止する。

1864年(29歳)足立郡戸田の原(現・埼玉県戸田市)にて通行人を誤って斬り捨て、伝馬町牢屋敷(現・中央区立十思公園)に投獄される。

1868年(33歳)出獄し郷里へ戻るも、同年病没する。

 

尾高長七郎の生涯

尾高長七郎の生き様は、次代を担う志士たらんとする意気を感じさせるもの。

渋沢栄一に与えた影響も非常に大きいです。

以下より、具体的なエピソードを辿りましょう。

「北武蔵の天狗」と呼ばれる

尾高長七郎は1836年、深谷市の下手計しもたばか村にて、豪農・尾高勝五郎の次男として生まれます。

兄の尾高惇忠は、渋沢栄一の漢学の師匠。

従兄弟関係でもあったため、栄一は尾高家に頻繁に出入りし、長七郎とも幼少から気の知れた仲だったといいます。

さて、長七郎といえば、ドラマのなかでも村一番の剣術使いとして描かれていますよね。

史実でも案の定、幼少から栄一らとともに、神道無念流しんどうむねんりゅう道場「練武館」にて剣術修行に励んでいました。

そして、その実力は、村一番どころの話ではありません。

渋沢栄一は自著青淵せいえん回顧録』にて、長七郎の剣術を

渋沢栄一
日本で一、二の腕であった

とまで評しているんですよね。

特に強いとされたのが、顔の横に竹刀をもってくる構えで、そこから放たれる斬撃は100発100中だったという話。

『青天を衝け』6話でも、この独特の構えを繰り出すシーンが見受けられました。

北辰一刀流の真田範之助が道場破りにやってくる場面でのこと、この道場破りも実際にあった話だといいます。

武者修行中だった真田は長七郎に敗れ、江戸に戻るとその実力を「天狗の化身のようだった」と広めました。

ここから、長七郎の“北武蔵の天狗”という異名が、各地で知られていくこととなるのです。

剣術といえば武士の特権のようなイメージがあります。

しかし幕末期は対外意識が高まっていたこともあり、農民でも剣術を志す時代となっていました。

俗に”剣術ブーム”と呼ばれるほど。

なかには長七郎のように、抜きんでた才覚を表す者も少なくなかったようです。

江戸での修行

長七郎が17、8歳ごろの話、兄惇忠の勧めで江戸へ修行に行くこととなります。

『青天を衝け』7話でも、

「家は俺が守る。名を高め、世に知れ渡る偉大な仕事をするのがお前の役目だ」

と、惇忠が背中を押す一幕がありました。

江戸に出た長七郎は、

・儒学者・海保漁村かいほぎょそん(江戸時代屈指と呼ばれた儒学者)

・心形刀流9代目・伊庭秀俊いばひでとし(幕府直轄の訓練機関・講武所の剣術師範)

といった、名のある師匠につき、文武をさらに極めていきます。

そう、剣術は言うまでもありませんが、長七郎は学問にも秀でていたのです。

渋沢栄一が江戸を尋ねた折には、長七郎が、海保漁村のもとで塾頭を務めるほどになっていたという話。

ひとつの分野で一流になれる人は、結局ほかの分野にいっても活躍できるとは、よく言ったものです。

「坂下門外の変」への関与

長七郎の江戸修行において、剣術や学問のほか、大きな影響を与えたのが攘夷じょうい志士たちとの交流でした。

(※攘夷…外国人を追い払うこと。海外諸国との条約締結に反対する動きから、幕末にはこの言葉が流行った)

多くの出会いで攘夷の思想を高めていった長七郎は、1861年、ついに具体的な行動に出ようとします。

翌年実行されることになる「坂下門外の変」の画策に関わっているのです。

このころ、宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵とつあんを中心に、幕府に改革を迫る挙兵が計画されていました。

その際、皇族出身の僧・輪王寺宮りんのうじのみやを擁立して挙兵する作戦を進言したのが、長州藩士・多賀谷勇たがやいさむと長七郎の2名です。

輪王寺宮はペリー来航の際に、幕府の依頼で攘夷祈願を行った僧。

皇室出身の威光もありますが、そもそも輪王寺自体が武家とつながりの深い寺社のため、幕府に圧力を加える人物としてはうってつけでした。

ただこの計画は、賛同者の少なさから実行にはいたらず。

代わりに水戸藩から声高に主張された、老中・安藤信正の襲撃計画が取り沙汰されていきます。

長七郎もこの計画に加わる予定だったのですが、実行直前に兄惇忠から止められ、思いとどまることに。

この辺りのやり取りは、『青天を衝け』10話でも少し描かれていましたね。

一方で「坂下門外の変」は予定通り実行され、訥庵をはじめとする関係者が捕縛される結末に終わりました。

これを知った渋沢栄一は、長七郎が幕府に捕らわれることを懸念し、信州佐久群へ逃げる手引きをしたという話です。

のちに京都へと移った長七郎は、潜伏するかたわら情勢を探るようになります。

栄一・惇忠らの攘夷計画を阻止

1863年10月になると、尾高惇忠や渋沢栄一を筆頭に決起した志士たちによって

・高崎城の乗っ取り

・横浜外国人居留地の焼き討ち

という、攘夷計画が企てられます。

海外列強に対して弱腰な幕府を改めさせるためには、このぐらい大胆な抗議活動が必要であると栄一たちは考えたわけですね。

この知らせを聞きつけ、血相を変えて故郷へ戻ってきたのが長七郎でした。

「攘夷志士らによる幕府への抗議活動には成功例がない。それどころか、攘夷派が「八月十八日の政変」などで、どんどん排斥されてしまっている。

武士ですらそんな有様なのに、農民風情が数十人集まって暴動を起こしたところで、失敗するのは目に見えている」

と、長七郎は栄一たちを止めにかかったのです。

「たとえ失敗しても、各地の志士を奮起させるきっかけになる」

惇忠や栄一はそう主張したともいいますが、それでも長七郎は

「刺し違えてでも止める」

と言って聞かず、夜通し問答が続いたという話。

最終的に栄一らが折れて計画は中止に。

のちに栄一はこの出来事を

栄一
長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれた

と、振り返っています。

計画を実行していたら、戦死しているか投獄されているか…。

栄一による明治期の偉業もなかったでしょうね。

長七郎の辻斬り事件

攘夷計画が中止となるとすぐ、栄一は

「計画していたことが幕府にもれれば、投獄されてしまう」

と考え、従兄の渋沢喜作とともに、故郷を離れて京都へと上ります。

長七郎はそのまま村に残り、剣術指南をするかたわら情報収集。

折を見て京都に向かい、栄一や喜作と合流する手はずとなっていました。

そんな最中、信じられないような事件が起こります。

長七郎は情報を集めるため、江戸と下手計村を行き来していたのですが、

その道すがら、なんの関係もない通行人を誤って斬ってしまい、投獄されるのです。

このときの動機にはさまざまな説があり、なかには

「キツネが化けていると思った」

というものまで…。

これじゃあ、さすがに情緒不安定すぎるので

「坂下門外の変の罪で、幕府の役人が追いかけてきたのかと思った」

が妥当な気がします。

京都でこの知らせを聞いた栄一や喜作は当然、長七郎を助けたいと考えました。

しかしここでもまた一つ問題が…。

長七郎が獄中から送った手紙には

「栄一の攘夷の意志を示した手紙を懐に入れたまま投獄されて、それを役人に見られてしまった」

と書かれていたのです。

これを幕府から追求されれば、栄一や喜作まで投獄されてしまいかねません。

結局、一橋家家臣・平岡円四郎の計らいで幕臣となったため、栄一らは罪を免れる結果となりました。

ただ、栄一らの訴えをもってしても長七郎は許されず、そこから約4年間獄中で過ごすことに。

1868年になってようやく出獄しますが、

すでに生気はなく、同年11月18日、33年の生涯を終えることとなりました。

 

きょうのまとめ

剣を握っても、学問をやらせても一番になってしまう長七郎は、紛れもない天才タイプ。

やはり長く生き延びていれば、もっともっと名を馳せたのでしょうが…。

短命に終わってしまう天才、報われない天才というのも、物語の観点ではカッコイイのかもしれません。

最後に今回のまとめ。

① 尾高長七郎の剣術は、日本で一、二といわれるほどの腕前だった。学問にも長け、儒学者・海保漁村に師事すると塾頭も務めた。

② 江戸では攘夷志士との交流を盛んに行い、1862年の「坂下門外の変」の計画にも参加した。老中襲撃を実行する前に、兄惇忠に止められている。

③ 渋沢栄一、尾高惇忠らの「高崎城乗っ取り」「横浜外国人居留地焼き討ち」を阻止。京都で情報収集していた長七郎は、攘夷活動がほとんど頓挫していることを理由に、この計画を無謀だと訴えた。

④ 攘夷活動を目的に栄一らが京都へ上るかたわら、長七郎は江戸と下手計村を行き来し、情報収集を行っていた。その道すがら、通行人を誤って斬り捨て、投獄されてしまう。

なんといっても、渋沢栄一の攘夷計画を止めたこと、

一橋家家臣となる一因となったことは、長七郎の無視できない功績です。

 
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