中国史において名君と言えばだれを挙げますか。
●中華を統一し、革新的なやり方で後代の中国のベースとなった秦の始皇帝
●低い身分から成り上がり、長かった戦乱を終わらせた前漢の劉邦
●人々をいつくしむ政治で国を復興させた後漢の光武帝
●中国史上最大領土を達成した清の乾隆帝
そんな彼らをも差し置いて、一番では?と呼ばれている人物がおります。
唐の太宗李世民です。
●政治にも軍事にも優れ
●部下にはオールスターともいう優秀な人々をたくさん従え
●乱世に勝ち残り
●統一後はそれまでにないような豊かで安定した世の中を実現して見せた
大いなるカリスマです。
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李世民はどんな人
- 出身地:中国陝西省
- 生年月日:592年1月28日
- 死亡年月日:649年7月10日(享年57才)
- 唐の事実上の建国者。“貞観の治”をおこない、後代に理想とされる時代を造り上げる。
李世民の年表
592年(0才)李世民生まれる
617年(25才)父李淵挙兵。李世民、その将軍として長安を落とす。
618年(26才)唐建国
626年(34才)玄武門の変
627年(34才)貞観始まる
630年(38才)突厥を倒し、天可汗の称号を得る
649年(57才)李世民亡くなる
李世民出陣
李世民はお父さんお母さんどちらも鮮卑(※)族系の流れをくむ超名門の家系です。
※鮮卑: 紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族
時は隋時代の末期、中国中で隋への反乱の火の手が上がると、李世民は家臣らとともに父李淵に決起をうながします。
李世民は軍を率いて隋の都長安へと進軍、占領。
その後も各地に並び立つ群雄たちとの戦争に大活躍します。
玄武門の変と皇帝即位
李淵の建てた唐王朝。
その太子は李世民の兄建成です。
しかし、あまりに優秀な弟李世民を警戒するようになります。
やがて李建成は弟の李元吉と組んで李世民の追い落としをくわだてます。
これを察知した李世民はクーデターを起こし、彼らを打倒。
この政変をそのおこなわれた場所から「玄武門の変」といいます。
なおこの時、李建成を弓矢で射殺したのは李世民自身。
李世民は唐の新皇帝太宗としてここに即位です。
貞観の治
貞観とは李世民が皇帝として治めた時の元号です。
627年~649年。
この期間、あまりに豊かで、人口は3割増加し、治安が良すぎて「泥棒がものすごく少なかった」と言われます。
本当に、今までの中国史上もっとも人々が安心して暮らせる世の中だったかもしれません。
李世民が行った主な政策は
●租庸調制……税制
●府兵制……農民から選んで徴兵。田畑の仕事が空いている時に訓練し、国境や都を警備させる。
●科挙制……役人を厳しい試験から登用する
●三省六部制……省官庁を三省六部に編成する
など。
「おや?」と思ったかもしれません。
そうです。
日本の律令制へと通じております。
外国に対しても、
●通商のジャマをした高昌国(今のトルファンあたりにあった漢人王朝)を滅ぼす
●チベットに力をつけてきた吐藩の王に姫をとつがせる
など、大きな成果をたくさんもたらしました。
李世民が立派な皇帝になれた理由
なお、李世民で絶対に忘れてならないのはその様々に才能を持った優秀な部下たちです。
房玄齢、杜如晦、李靖、魏徴、長孫無忌、尉遅敬徳、……。
かられのうちほとんどがもともと隋や群雄の部下だった人たち。
魏徴にいたっては李建成付きの策略家で「玄武門の変」の時に李世民を殺すよう提案しておりました。
ただ、魏徴は相手がだれであろうと、自分の信じるところをきちんとアドバイスする人です。
李世民の部下になってからも、皇帝としての道を踏み外そうとするたび、「それはいけない!」と素直に注意。
李世民はそんな魏徴の言うことをとても大事にしました。
●有能な家来を敵陣営からも積極的に集められる
●ここ一番では自分でも決着を付けられる
まさに、「リーダーの鑑」のような人です。
きょうのまとめ
李世民は若いうちから
「漢の劉邦や魏の曹操と同類」
とまで讃えられたことがあります。
まさに皇帝になるべき人間。
そして、その才能におごることなく、理想的皇帝として一生あり続けるのには並大抵の苦労ではなかったはずです。
しかし、もはや“皇帝道”といってよい道を一途に突き進んだその様が長年の厳しい政治や戦争に疲れた多くの人々に幸せを与えました。
才能の生かし方、と、志の大きさ、についてこの偉大な皇帝から学ぶべきものは底知れません。
① 李世民は群雄や兄弟、強力な異民族をも打ち破った
② 李世民は内政においても実績を残し、その治世は“貞観の治”と呼ばれ、後の世の見本となった
③ 李世民は敵陣営からでも優秀な人材を積極的に登用し、彼らの言うことをよく聞いた
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