フランスの近現代音楽を代表する作曲家の一人である、モーリス・ラヴェル。
緻密なつくりで知られる彼の作品の有名どころと言えば、
『ボレロ』や『ダフニスとクロエ』などが挙げられます。
また彼はバスク地方の血筋をひき、生涯にわたってスペインの音楽にも関心を寄せていました。
ラヴェルとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回はその生涯から主な功績を見ていきましょう。
ラヴェルはどんな人?
- 出身地:フランス シブール
- 生年月日:1875年3月7日
- 死亡年月日:1937年12月28日(享年62歳)
- フランス近現代音楽の作曲家。
ラヴェル 年表
西暦(年齢)
1875年(0歳)フランスバスク地方シブールで誕生。4ヵ月後、一家でパリへ移住。
1882年(7歳)ピアノを学び始める。
1886年(11歳)和声法と対位法を学ぶ。
1889年(14歳)パリ音楽院に入学しピアノ予備クラスで学ぶ。
1891年(16歳)ピアノ演奏で一等賞を得る。ピアノ科と和声法クラスに入学。
1898年(23歳)3年ほどパリ音楽院を出ていたが戻り、ガブリエル・フォーレの作曲法クラスに入学。『古風なメヌエット』の初演。
1899年(24歳)ピアノ曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』などを作曲。
1900年(25歳)ローマ大賞初応募。
1901年(26歳)『水の戯れ』を作曲。
1903年(28歳)『シェヘラザード』を作曲。翌年初演を迎える。
1905年(30歳)5度目のローマ大賞応募が予選で落選(ラヴェル事件)。『序奏とアレグロ』、『鏡』などを作曲。
1908年(33歳)『スペイン狂詩曲』が完成し初演を迎える。『夜のガスパール』などを作曲。
1909年(34歳)『独立音楽協会』を設立する。初の海外演奏会でロンドンを訪問。
1910年(35歳)『マ・メール・ロワ』が完成し初演を迎える。『ダフニスとクロエ』の完成。
1911年(36歳)イングランド、スコットランドで演奏会を開催。
1912年(37歳)『ダフニスとクロエ』が初演を迎える。過労のためパリを離れ一時休養する。
1913年(38歳)『ステファヌ・マラルメの3つの詩』などを作曲。
1914年(39歳)『ダフニスとクロエ』のロンドン公演。『クープランの墓』に着手。
1915年(40歳)第一次世界大戦に伴い輸送兵士として従軍する。
1916年(41歳)赤痢を患い手術を受ける。後にパリへ戻る。翌年『クープランの墓』が完成。
1919年(44歳)メジューヴで2カ月弱休養する。『クープランの墓』が初演を迎える。
1920年(45歳)レジオン・ドヌール賞の受賞を拒否する。翌年ベルヴェデーレに転居。
1922年(47歳)ドビュッシーの『サラバンド』、ムソルグスキーの『展覧会の絵』をオーケストラに編成する。イギリス、オランダ、イタリアへ旅行。
1923年(48歳)イタリア、ベルギー、オランダに旅行。
1926年(51歳)ベルギー、イングランド、スカンジナビア半島、スコットランド、スイスに旅行。『マダガスカル島民の歌』の完成。
1928年(53歳)アメリカ、カナダに旅行。オックスフォード大学名誉博士号を授与される。帰国後『ボレロ』を作曲。
1929年(54歳)イギリス、スイス、オーストリアに旅行。『ピアノ協奏曲ト長調』などに着手。
1931年(56歳)『ピアノ協奏曲ト長調』の完成。翌年初演を迎える。医者から休養を指示される。
1932年(57歳)タクシー事故に遭う。スイスに旅行。翌年、不治の病の最初の兆候が発現する。
1934年(59歳)スイスの病院に入院。アメリカ音楽院フォンテヌブロー校の校長に就任する。
1935年(60歳)スペイン、北アフリカに旅行する。翌年から急激に健康状態が悪化。
1937年(62歳)死去。
ラヴェルの生涯
ここからは早速、ラヴェルの主な功績についてご紹介していきます。
多作な前半生
ラヴェルが活躍した19世紀後半~20世紀前半は、あらゆる芸術分野の動向として、自由で実験的な特徴を持つ芸術家たちが目立ちます。
ラヴェルは14歳から14年間パリ音楽院に在籍します。
当時最先端の音楽教育を受け、革新的なアイディアに満ちた多くの芸術家たちと交流してきました。
現代では印象派の作曲家としてドビュッシーと並び称されるラヴェルですが、実際には古典形式の特徴も取り入れ、各ジャンルで傑作を遺しています。
その音楽的特徴としては、
・東洋やアメリカ音楽(ジャズなど)の影響
・バスク地方の伝統音楽
・巧みなオーケストラ編成
・和声とリズムの緻密な構成
などが見られ、その技術は職人的であるとして高く評価されているのです。
早くから才能を開花させたラヴェルは、どちらかと言えば若い頃に作曲家としてのピークを迎えた人物と言えます。
在学中から多くの作品を創作し、代表作にはピアノ曲の
・『水の戯れ』
などが挙げられます。
中でも彼の作曲家としての名声を絶対的なものにしたのは、冒頭でもご紹介したバレエ曲『ダフニスとクロエ』の成功でした。
<ダフニスとクロエ>
苦労の後半生
ラヴェルの人生の転換期とも言える出来事が起こるのは、40歳を迎えた頃。
彼は前年から勃発した第一次世界大戦において、輸送兵士として従軍します。
翌年には赤痢を患い手術をうけたり、さらに次の年には最愛の母を失ったりという様に、心身共に苦労が重なっていくことになります。
この頃から彼はたびたび過労で休養を余儀なくされました。
さらにラヴェルが45歳を迎える頃には、彼自身が既にフランスの音楽界の最先端ではなくなってしまうのです。
ハイペースだった創作活動も、この頃からは年に一曲ほどになっていきました。
それでも彼は、これ以降海外へ積極的に演奏旅行に出かけるなど、創作以外の活動にも挑戦していきます。
中でもアメリカ旅行では、ヨーロッパとは異なる文化に大きな感銘を受け、また彼自身の演奏会もアメリカで大成功を収めました。
その帰国後に作曲したのが『ボレロ』です。
他にもラヴェルは、編曲作品でもその才能を存分に発揮しています。
ムソルグスキーの『展覧会の絵』などは、皆さんもどこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
晩年まで積極的に演奏旅行に赴いていたラヴェルでしたが、50代を過ぎた頃から言語障害などの何らかの脳の障害に悩まされるようになります。
そして57歳の時にタクシー事故に遭ってから、その病状は徐々に悪化し、62歳で死去しました。
ちなみに、ラヴェルが『ボレロ』以降亡くなるまでに作曲できたのはわずか3曲でした。
<ボレロ>
ラヴェル事件
ここでは、ラヴェルの生涯をもう少し掘り下げるために有名な事件をひとつご紹介します。
それが『ラヴェル事件』です。
彼の名前がそのまま事件名になっていますが、ラヴェルはどちらかと言えば被害者と言えるでしょう。
それは彼が若手芸術家の登竜門、ローマ大賞に応募した5回目のことでした。
それまで何度か入選することはあったものの、一度も大賞にならなかったラヴェルは、今回は予選で落選してしまったのです。
既に数々の名曲を生み出し、作曲家として有名になっていたのにこれはおかしい、ということで音楽評論家たちの間で抗議の声が上がります。
その後の調査で、予選通過者全員が審査員の門下生であったことが判明し、審査の不公正が明るみになったのでした。
この一連の事件の通称に、ラヴェルの名前が使用されたのです。
きょうのまとめ
今回は、フランス近現代の作曲家ラヴェルについて、主な功績を中心にその生涯を見てきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ラヴェルとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀後半~20世紀初頭に活躍したフランスの作曲家。
② 印象派とみなされるが、ドビュッシーよりは古典形式を取り入れている。
③ 多ジャンルに名曲を遺し編曲も得意、その精巧な技術は「職人的」と称される。
実はかなりの小柄だったラヴェル。
彼の家の家具は、自分を少しでも大きく見せるために全て小さめだったとも言われています。
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