世に肉食系男子という言葉があります。
そして、草食系男子という言葉があります。
では、ロールキャベツ系男子という言葉を知っていますか。
表向き、草食なのに、中まで食べてみると、実は肉食だった、というパターンです。
さて、ここで紹介するのはルネッサンス三大巨匠の一人ラファエロです。
そのちょっとロールキャベツな生きざまを垣間見てみましょう。
ついでに、ロールキャベツ系男子の対義語とはいったいなにでしょう?
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ラファエロはどんな人
- 出身地:イタリア・ウルビーノ
- 生年月日:1483年3月28日
- 死亡年月日:1520年4月6日(享年37才)
- ルネッサンスを代表する芸術家
ラファエロの年表
1483年(0才)ラファエロ生まれる
1504年ごろ(21才ごろ)フィレンツェに移る
1508年(25才)ローマに移る
1509年(26才)『アテナイの学堂』完成
1514年(31才)サンピエトロ大聖堂の建築監督者に任命される
1520年(37才)ラファエロ亡くなる
ラファエロの生い立ち
ラファエロの父は宮廷画家です。
そのため、ラファエロは幼いころから父の英才教育を受けて育ちます。
後のラファエロの作品はやはりこの父の作風とよく似ています。
しかし、彼の人生はそんなに順風満帆にはいきません。
8才で母を亡くし、11才の時には父にも先立たれてしまいます。
そんな中ラファエロはペルジーノという画家の弟子として技を磨き、やがて独り立ちしてゆきます。
フィレンツェ時代
21才ごろ、ラファエロは当時美術の最先端だったフィレンツェに移り住みます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、といった偉大な先輩芸術家の作品に触(ふ)れるなど、彼を大いに動かしたようです。
やがて、豊かな市民たちからたくさんの依頼を受け、仕事をこなしてゆくようになります。
その作品の多くが聖母子画。
幼いうちに母を亡くした彼のあこがれを投影しているようです。
ローマ時代
しかし、そんな芸術の都も長く彼をとどめておくことはできませんでした。
このあまりにも若くして開いた才能の花をローマ教皇庁が見逃しておくはずがありませんでした。
ローマに移り住んだラファエロは早くもバチカン宮殿の署名の間の壁画という大仕事をあてがわれます。
そこでなしとげた大作のうちのひとつが『アテナイの学堂』。
縦5m横7.7mの円弧型いっぱいにギリシャ時代の哲学者やそれに集い学ぶ人々の姿がそのあった日のようにありありと。
その素晴らしい大スペクタクルは圧倒的。
これをなしとげたのがわずか26才というのが驚きです。
ラファエロの作は年とともに深みを出し、さらに建築家としてサンピエトロ大聖堂内の設計を手掛けるなど広がりも見せてゆきます。
ラファエロとダ・ヴィンチ、ミケランジェロのちがい
ラファエロは同じイタリア・ルネッサンスの巨匠
●レオナルド・ダ・ヴィンチ
●ミケランジェロ
と比べると世渡りにソツがありません。
だれに対しても優しい雰囲気。
弟子はたくさんおりましたし、お仕事は彼らと分担して受け持ちあいます。
早いうちからかなりの売れっ子で、女性が大好きでもあります。
このあたりほかの二人との個性のちがいはかなりはっきりしていますので、よければうちのサイトをいろいろと検索・参考にしてください。
しかし……。
ロールキャベツ男子キレる
やっぱりラファエロもそこはイタリア・ルネッサンスの巨匠でした。
こんなエピソードがあります。
その時ラファエロはあるお客さんからのオファーで「聖母子画」を描いておりました。
ラファエロはそのモデルとして自分の恋人を連れてきます。
ところが、お客さんは
「いや、せっかくだから、オレの恋人をモデルにしようと思うんだけどね」
と主張してきます。
すると、ロールキャベツの皮がブツリと割れてしまいます。
ラファエロは絵筆を投げつけ、出て行ってしまいました。
きょうのまとめ
ラファエロは熱病のため37才であっけなくこの世を去ってしまいます。
彼についてはその後長く生きていればどんなものを残したのだろう、と惜しまれます。
① ラファエロは早熟の天才である
② ラファエロはルネッサンスの先輩2巨匠に比べると世渡りに如才ない
③ でも、ラファエロには意外な一面がかくされているようだ
ちなみに3巨匠の関係は
ダ・ヴィンチ(↔ギスギス・ライバル?)ミケランジェロ
ミケランジェロ(↔ギスギス・ライバル?)ラファエロ
ラファエロ(→尊敬)ダ・ヴィンチ
といった感じです。
最後になりましたが、ロールキャベツ系男子の対義語について
……アスパラベーコン系男子といいます。
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