ピサロはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

インカ帝国を滅ぼした征服者フランシスコ・ピサロ

恵まれない生い立ちから一代で成り上がった、まさに大航海時代のもうし子とも言うべき男です。

そして謀略と暴力と栄華の果てに待ち受けていた悲惨な境遇とは。

アンデスにのふもとへと神秘の海風がさらいます。

 

ピサロはどんな人

プロフィール
ピサロ

出典:Wikipedia

  • 出身地:スペイン・トルヒージョ
  • 生年月日:1470年ごろ
  • 死亡年月日:1541年(享年71才ごろ)
  • スペイン出身の軍人、探検家。インカ帝国を征服。

 

ピサロの年表

年表

1470年ごろ(0才)ピサロ生まれる

1498~1502年(30才前後)イタリア戦争に参加

1502年(32才ごろ)イスパニョーラ島へわたる

1513年(43才ごろ)バルボアの部下としてパナマ遠征に同行

1532年(62才ごろ)インカ皇帝アタワルパをさらう

1533年(63才ごろ)アタワルパを処刑

1538年(68才ごろ)アルマグロを討つ

1541年(71才ごろ)ピサロ、暗殺される

 

ピサロの生い立ち

フランシスコ・ピサロ

父ゴンサロは地元の名士です。

が、お母さんは召使いと言われ、ゴンサロの妾(めかけ。愛人)です。

そのせいでしょう。

ほかの兄弟たちは教育をしっかりしてもらったのに、ピサロには、なされた様子がありません。

父親の遺言書にもピサロの名前が載っておりません。

読み書きができず、とても言葉少ない少年だったと言います。

そんなかなり複雑な環境で育ったピサロはとても危険な新大陸探検に名乗りを上げます。

ヨーロッパで初めて太平洋を発見したバルボアの部下に。

やがて皮肉にも、ピサロはバルボアを逮捕。

そして、バルボアは斬首刑に処されてしまいます。

なおもマゼランの夢は南米アンデスの奥地へ。

飢えに苦しみ、現地人におそわれ、仲間がワニに飲みこまれ、そんな壮絶な旅路の向こうにそれはありました。

 

ピサロ、インカ皇帝をさらう

インカ帝国

当時南米大陸に大変な繁栄をほこった巨大文明国家です。

ピサロはここでとても大胆な作戦を実行に移します。

なんと、インカの皇帝アタワルパとの会見でいきなりアタワルパをさらいます。

そして、持ち前の大砲・鉄砲・クロスボウなどのスペイン最新兵器で敵軍を混乱におとしめます。

インカは確かに当時世界でも見られない独自の高い文明を持っておりました。

しかし、スペインの恐るべき軍事力と、冷徹な征服意欲はまたたくまにそれらを蹴散らしてしまいました。

そして、ピサロらがインカにねらっていたのはそのとても豊かな金銀財宝です。

 

インカ皇帝を処刑

ピサロはアタワルパ操り人形のようにし、インカ帝国の富を自分たちに吸い上げてゆきます。

黄金だけで現在価値40億円以上と言われます。

しかし、ピサロの家来らがアタワルパを担ぎ上げてインカの者らが反抗することを恐れ「殺そう」とせまります。

ピサロは仕方なく応じ、処刑。

“太陽の子(※)”アタワルパは

(※)インカでは太陽はとても神聖なものです。インカの皇帝は太陽の子だとされます。

「必ず復活して復讐(ふくしゅう)する」

と残しました。

 

ピサロの最期

その後もピサロたちは後継ぎの皇帝たちを自分の好きなように利用します。

一方で植民都市リマを建設。

今のペルーの首都です。

しかし、ピサロの栄華は長続きしませんでした。

スペイン本国はピサロを「アタワルパを無実で殺した罪」で追及。

また、ピサロの兄弟たちは反目しあうようになり、かつての仲間アルマグロとも戦うようになります。

そんな大変な混乱のさなかにあってピサロは暗殺。

その遺体はちゃんと葬られることなくミイラとなり、今は彼が生前に礎石を立てたカテドラル(大聖堂)で静かに眠り続けております。

合わせて読みたい
関連記事 >>>> 「インカ文明とピサロのミイラ」

 

きょうのまとめ

さてそのころ、日本の種子島にある一団が漂着いたしました。

さて、歴史の流れはどのように・・・

① ピサロは新大陸の探検によって複雑な身の上から一代で大出世をなしとげた

② ピサロらはずるがしこいやり方でインカ帝国を自分たちの思い通りにした

③ ピサロの晩年は内紛などによって大いに混乱し、そんなさなかに暗殺された

 
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