大村益次郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

長州征伐、戊辰戦争において活躍し、明治維新の立役者のひとりに数えられる

大村益次郎おおむらますじろう

新政府軍屈指の軍師と名高い彼ですが、その実、前半生は軍事とはまったく無関係な人生を歩んでいます。

そんな益次郎が、いかにして軍政のトップを担うまでになったのか、そこには出世は必然ともいえる彼の下積み時代が隠されています。

大村益次郎はいったいどんな人物で、どのような経緯で軍事に関わっていったのか。

今回はその生涯から彼の人物像に迫ってみましょう。

 

大村益次郎はどんな人?

プロフィール
大村益次郎

エドアルド・キヨッソーネが死後に関係者の説明で描いた肖像
出典:Wikipedia

  • 出身地:周防国すおうのくに吉敷郡よしきぐん鋳銭司村字大村すぜんじむらじおおむら(現・山口県山口市鋳銭司)
  • 生年月日:1824年5月30日
  • 死亡年月日:1869年12月7日(享年46歳)
  • 長州征伐、戊辰戦争で活躍し、新政府成立の中核を担った軍師。西洋兵学を反映し、軍の近代化を推し進めた。

 

大村益次郎 年表

年表

西暦(年齢)

1824年(1歳)周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)にて、村医者をしていた父・村田孝益の長男として生まれる。

1842~50年(18~26歳)防府ほうふ豊後ぶんご(大分)、大阪などに渡り、医師の梅田幽斎や緒方洪庵おがたこうあん、儒学者の広瀬淡窓ひろせたんそうらに学ぶ。

1850年(26歳)父に呼び戻され、鋳銭司村で村医者を開業。隣村の農家の娘・琴子と結婚する。

1853~55年(29~32歳)ペリー来航の影響で蘭学の需要が高まり、伊予宇和島藩に出仕。西洋兵学や蘭学の翻訳、西洋軍艦の研究や造船に携わる。

1856~60年(33~37歳)伊予宇和島藩主・伊達宗城だてむねなりの参勤に従い江戸へ向かい、私塾を開く。同時に幕府の教育機関である蕃書調所ばんしょしらべしょ、講武所にも雇われ、講義を行う。

1860年(37歳)長州藩上屋敷にて兵学書の講義を行ったことをきっかけに要請を受け、長州藩士になる。

1864~65年(41~42歳)長州藩の藩校・明倫館にて西洋兵学を教える。下関戦争後の外国人応接、奇兵隊の創設にも携わる。

1866年(43歳)幕府の長州征伐に備え、藩の軍再編を行う。戦場では津和野藩(島根)方面の軍を指揮し、巧みな戦術で幕府軍を圧倒する。

1868年(45歳)戊辰戦争に参加。上野戦争を指揮し旧幕府軍を1日で鎮圧、関東北部の戦いで新政府軍の総司令官を務めるなどの活躍を見せる。

1869年(46歳)新政府の幹部となり軍政を担う。軍事視察に赴いた京都で元長州藩士たちの襲撃に遭い、重傷を負う。治療を行うも敗血症を併発し、死没。

 

大村益次郎の生涯

1824年、大村益次郎は周防国吉敷郡鋳銭司村字大村すおうのくによしきぐんすぜんじむらじおおむら(現・山口県山口市鋳銭司)にて、村医者の村田孝益の長男として生まれます。

幼名は村田宗太郎といい、のちに良庵、蔵六と改名したのち、40代を迎えた長州藩時代から、大村益次郎の名を名乗るように。

孝行者だった彼は故郷の住所である大村を苗字に、益次郎という名前も父・孝益の名になぞらえたものとしました。

誰よりも勤勉で、外国語から医学、兵学に精通した益次郎がどのように世に出ていったのか、以下より見ていきましょう。

家業を継ぐために学問に励んだ青年期

益次郎は18歳のころに故郷の鋳銭司村を離れ、防府ほうふ豊後ぶんご(大分)、大阪に渡り、各地で学問に励みます。

当初は家業の村医者を継ぐため、シーボルトの弟子・梅田幽斎に師事します。

しかし梅田はすぐに益次郎の才能を見抜いたのか、儒学者の広瀬淡窓ひろせたんそうに学ぶことを勧めました。

ここで医学とは関係のない漢学算術を学んだことは、のちにまったく別分野の兵術で成果を挙げる益次郎の下地になっているのかもしれません。

そのまま学問を追求した益次郎は1846年、22歳のころに医師・緒方洪庵おがたこうあんに師事し、塾頭として教壇に立つまでになります。

わずか数年でこの精通ぶり。

故郷を離れてから昼夜問わず学問に励んできたことが伝わってきますね。

そして1850年のこと、父に呼び戻された益次郎は予定通り、故郷の鋳銭司村で村医者を開業することになります。

このように、軍事とはまったく関係のない道を歩もうとしていた益次郎ですが、このあと日本を取り巻く世論が大きく動いたことから、その人生は大きな転機を迎えることになります。

外国語の需要が高まり伊予宇和島藩に出仕

1853年のこと、ペリー来航によって欧米諸国の脅威を目の当たりにした日本の世論は

「対抗するためには外国語が必要だ」

という風潮を強めます。

この流れから益次郎も伊予宇和島藩からの要請を受け、軍事に携わるキャリアをスタートさせることになります。

最初に益次郎が藩から呼び出された際、藩主・伊達宗城だてむねなりの参勤交代で重役が不在だったため、彼の待遇を巡ってひと悶着あったという裏話も…。

何も知らない藩士からしてみれば、益次郎は素性のわからないただの村医者です。

そのため当初、低い待遇で益次郎は迎えられたのですが、藩に戻った家老はこれに怒り、益次郎の待遇は一気に上げられたといいます。

このとき与えられた給料は100石で、武士でいえば将軍に直接お目見えできる旗本のそれと同じ。

無名の村医者がいきなりここまで出世できてしまうわけですから、当時外国語がいかに重要視されていたかがよくわかります。

こうして益次郎は兵学書の翻訳をはじめ、そこから得た知識を用い、砲台の設置や西洋軍艦の造船に従事。

長崎に軍艦の研究をしに行った際には、シーボルトの娘で日本初の女性産婦人科医の楠本イネに蘭学や医学を説いたという話もあります。

幕府の兵学教授役に従事

1856年のこと、伊予宇和島藩主・伊達宗城の参勤に同行した益次郎は、そのまま江戸にて「鳩居堂」という私塾を開くことになります。

同時に幕府からもその知識を買われ、幕府の教育機関である蕃書調所ばんしょしらべしょ・講武所にて兵学を教えることに。

益次郎の博学ぶりは当時の同僚のなかでも一線を画しており、

「渡来したての難文も先生にかかれば、容易く読み解かれてしまう」

と評判だったのだとか。

幕府の教育機関は今でいう東大のようなものですから、益次郎の外国語の習熟度は国内最高レベルに達していたといえます。

その後長州藩上屋敷にて講義を行ったことをきっかけに藩士の木戸孝允きどたかよしとの縁ができ、1860年から益次郎は長州藩士として仕える道を選びます。

このときなぜ、幕府のエリートコースを捨て、長州藩を選んだのかは謎ともいわれていますが…のちの倒幕を思えば、益次郎には先見の明があったといえますね。

長州征伐

長州藩士となってからの益次郎は、藩校・明倫館にて兵学を教えるかたわら、1863年に勃発した下関戦争の後始末のため外国人の応接を担当するなど、まさに要職を任される立場に。

またこのころから、幕府による長州征伐が始まり、それに備えた軍の再編も行っています。

益次郎は幕府の大軍に対抗すべく、従来の武士による軍だけでなく、町民や農民が戦争に参加する必要性を説き、約1600人からなる農商階級の軍を新しく編成。

このほか武士で編成されていた軍も、機動力を重視して再編しました。

第二次長州征伐では実際に戦場でも指揮を執り、津和野藩(島根県)方面から攻めてくる幕府軍を圧倒し、そのまま進軍して浜田城を陥落させるまでの戦功を挙げています。

戊辰戦争

1868年に勃発した戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いを受けて出陣した藩主・毛利元徳もうりもとのりに伴い、益次郎も京都へ入ります。

ここでの益次郎の活躍はこれまで以上に目まぐるしく、彼が明治維新の立役者といわれるゆえんとなりました。

・新政府軍の江戸城攻撃を考案

・御所の警備に新しく遣わされた兵の訓練を担当(これがのちの陸軍となる)

・上野戦争を指揮し、旧幕府軍を1日で鎮圧

・関東北部の戦いにおいて新政府軍の総司令官を務める

などなど、多数の功績が知られています。

なかでも軍師・益次郎の名を世に知らしめることになったのは、江戸にはびこっていた旧幕府軍の残党を1日で鎮圧してみせた上野戦争です。

負けている風を装って旧幕府軍の油断を誘い、自陣に引き上げていくところを、当時最新の大砲だったアームストロング砲で狙い撃ち。

なんと一瞬のうちに勝負をつけてしまったのです。

新政府にて軍政を牽引

戊辰戦争が終わると、益次郎は新政府の幹部として軍政に携わり、近代日本における軍事の基礎を作っていきます。

日本の中心に位置する大阪に兵学寮を設け、フランス軍を手本にするべく、フランス人教官を雇い入れるなど、ここでも先進的な取り組みを多数見せています。

そう、やはり益次郎には先見の明があり、このころ、新政府で英雄視されていた西郷隆盛を唯一危険視していたのが彼でした。

戊辰戦争後、西郷と薩摩藩の動きを不審に思った益次郎は

益次郎
今後注意すべきは西である

という言葉を残しています。

西郷が政府に反旗を翻し、西南戦争を起こす何年も前から、益次郎はそれを予期していたのですね。

彼が大阪を中心に軍事拠点を築こうとしたことにも、九州方面に常に警戒が向けられるようにという意味が含まれていました。

しかし、実はこの恐ろしいほどの切れ者ぶりが、益次郎にとって仇となります。

彼の軍制改革はあまりにも新しすぎたため、当時は反感を覚える者が多くいました。

その結果益次郎は京都・大阪の軍事視察に訪れた折、元長州藩士たちの襲撃に遭い、重症を負います。

このとき傷口からばい菌が入ったことで、敗血症を併発。

左足の切断を余儀なくされますが、手術の日取り決めに手間取ったため、手遅れになります。

こうして1869年12月7日、益次郎はその生涯に幕を下ろすことになるのです。

 

きょうのまとめ

青年期から人一倍学問に励み、その蓄えた知識を買われ、国の重要人物となっていった大村益次郎。

元は医者なのに、軍事というまったく畑違いの分野で活躍したその姿は、才能だけで済ませられる話ではありません。

膨大な努力からのサクセスストーリーには、勇気づけられるものがありますね。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 村医者の家系だった大村益次郎は、国内で外国語の需要が高まったことをきっかけにその知識を買われ、幕府や藩から重宝されるようになった。

② 長州征伐、戊辰戦争では数で勝る幕府軍を戦略で圧倒。軍師としての名を一気に広めた。

③ 新政府の幹部となり軍政を牽引するも、新しすぎる政策が反感を買い、襲撃事件に巻き込まれる。

益次郎のように勤勉な偉人の話を聞くと、「私もがんばらなきゃ」と身の引き締まる思いがしますね。

 

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