ノストラダムスとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「1999年の7月、人類は滅亡する」

この予言は当時、様々な不安が蔓延る世紀末の日本では特に大変な話題となりました。

その名も「ノストラダムスの大予言」。

皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

この予言者ノストラダムスは、ルネサンス期のフランスに生きた実在の人物です。

一体、ノストラダムスとはどのような人物だったのでしょうか。

今回は、その知られざる生涯の全貌に迫ります。

 

ノストラダムスはどんな人?

プロフィール
ノストラダムス

ノストラダムスの肖像画(1614年頃)
出典:Wikipedia

  • 出身地:フランス プロバンス地方サン=レミ
  • 生年月日:1503年12月14日
  • 死亡年月日:1566年7月2日(享年62歳)
  • 医者、占星術師、詩人、料理研究家。詩集『ノストラダムスの大予言』で有名。

 

ノストラダムス 年表

年表

西暦(年齢)

1503年(0歳)南フランスのプロヴァンス地方、サン=レミで誕生。

1518年?(15歳)アヴィニョン大学に入学。文法学、修辞学、倫理学、算術、幾何学、天文学、音楽などのリベラルアーツを学ぶ。

1520年(17歳)ペストの流行により大学生活を中断。

1521年(18歳)約8年間、各地を遍歴して薬草に関する知識やその採取に務める。

1529年(26歳)モンペリエ大学の医学部に入学。

1531年?(28歳)大学で研究の最中。またはアジャンで開業医として働き、この地の女性と結婚したとされる。

1534年(31歳)妻子を喪う(おそらくペストが原因とされる)。

1538年(35歳)トゥールーズの異端審問官から召喚される。後に再び遍歴の旅に出る。

1544年(41歳)マルセイユの医師に師事し、翌年囚人の診察を行ったとされる。

1546年(43歳)南仏の都市エクスでペストの治療に当たる。

1547年(44歳)南仏プロヴァンス州のサロン・ド・クローで未亡人の女性と再婚。

1555年(52歳)『化粧品とジャム論』、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』を刊行。国王と王妃から招待を受ける。

1557年(54歳)『ガレノスの釈義』を出版。

1564年(61歳)数年前から王侯貴族を相手に占星術師として活動。

1566年(62歳)公証人を呼び遺言書を作成し、約1か月後に死去。

 

ノストラダムスの生涯

ここからは早速、ノストラダムスの生涯や功績について見ていきましょう。

前提として

ノストラダムスについてご紹介する前にひとつ押さえておいていただきたいのが、彼には伝説や噂が多く、正確な情報が少ないということです。

「預言者」という肩書自体が曖昧さを連想させるには十分な材料とも言えますね。

しかし、この項目ではその中でも彼についての正確性が極めて高いとされる情報をご紹介していきます。

本職は・・・

日本では世紀末の人類滅亡予言で有名なノストラダムス。

しかし彼の出身地であるフランスおよびヨーロッパでは、「医者」として有名です。

ノストラダムスが生きた時代、特にフランスではペストが度々猛威を振るっていました。

その影響で10代だったノストラダムスは、大学の休校により学生生活を断念。

約8年に渡り各地を遍歴する中で、薬草を採取してはそれにまつわる知識を深め、医学の道を志していきました。

遍歴の末に20代半ばでモンペリエ大学の医学部に入学すると、それ以降は医者としての活動を続けていた痕跡が、処方箋などの記録から度々発見されています。

医者としての確実かつ目立った功績はありません。

しかしノストラダムスは各都市でペストの集団感染が発生すると、他の多くの医者が恐れる中、怯むことなくその地に出向いては治療に当たっていました。

それにも関わらず、自身は奇跡的にもペストに感染することはなくその生涯を終えています。

彼が医者として有名になったのは、宗教観や錬金術による観念的な医療が主流だった当時、科学的かつ合理的な姿勢で治療に当たっていたからとも言えます。

予言と占星術

医者としての活動を続けながらも、後半生では医学を基にした著作の執筆や、1年間を占う預言書の出版によって著名になっていきます。

ノストラダムスは医学の他に、天文学占星術への造詣が深く、その天体に関する知識を基に著作を行っていました。

中でも1555年に初版が出版された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は大きな反響を呼びます。

私たちがよく知るあの「ノストラダムスの大予言」も、この予言集の中に含まれているものです。

そして彼の予言集の評判は時のフランス国王アンリ2世と王妃の元にも届き、ノストラダムスは2人に謁見を果たしています。

その後は特に王妃を中心に、ノストラダムスの予言は王侯貴族の間でもてはやされるようになりました。

予言には外れるものや不明瞭なものも多かったとされていますが、ノストラダムスはホロスコープ(占星術における各個人を占うための天体の配置)を用いては度々彼らの相談役を務めていたのです。

 

ノストラダムスにまつわる伝説

噂や伝説が多く、存在自体が曖昧なヴェールに包まれているノストラダムス。

ということでここでは、謎多きノストラダムスの伝説をご紹介していきます。

コペルニクスより先

15歳前後でアヴィニョン大学に入学したノストラダムス。

彼は短い学生生活の中でリベラルアーツを中心に学んでいたその当時、学友たちの前で正確な地動説の概念を語っていたとされる伝説があります。

それは、後にコペルニクスが『天球の回転について』を発表する20年以上前のことでした。

ペストの媒介を発見

医者としてペストの治療に当たっていたノストラダムス。

彼はそのときに、ネズミがペストを媒介していることに気づいたと言われています。

そして直ちにネズミ退治を命じて酒や熱湯で町中を清めます。

これは、後のアルコール消毒や熱湯消毒を先取りする方法でした。

さらに当時当たり前に行われていた瀉血しゃけつ(感染者の血を抜いて菌を外に出す治療法で、近代までその効果が信じられていた)を否定。

キリスト教的に禁忌であった火葬を指示したとも言われているのです。

この様に、科学的な根拠を基にノストラダムスはペストの蔓延を食い止めようと奔走した、と語り継がれています。

「ジャム」を開発


ノストラダムスはジャムの開発者とも言われています。

料理研究家でもあった彼は、果物と砂糖の持つ栄養価の高さに着目。

そして栄養失調や体力回復のため、さらに保存可能な栄養食品としてジャムを作ったのです。

この事については彼の著作、『化粧品とジャム論』の中に記されています。

彼が開発したジャムがこの著作と共に世間に広まったことで、栄養失調者が減ったとも言われています。

 

きょうのまとめ

今回は、ルネサンス期のフランスで活躍した医者にして預言者のノストラダムスについて、その生涯や功績を伝説と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ノストラダムスとはどのような人物だったのか簡単にまとめると

① 16世紀のフランスで活躍した人物。

② 日本では「ノストラダムスの大予言」で有名だが、ヨーロッパではペストの治療に従事した医者として有名。

③ 後半生は預言者としての活動が目立つ。

「ノストラダムスの大予言」により、多くの日本人が1999年に人類が滅亡すると信じ、あるいは信じずとも気にかけていました。

しかし実際に彼の預言書の内容には、「自分の予言は3797年までのもの」という記述があるのです。

予言や噂には、解釈の相違や尾ヒレが付き物だということを、ノストラダムスという人物を通して改めて感じることができます。

しかしそういったものに踊らされるのもまた、人間の本質なのかもしれませんね。

 
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