本をあまり読まないとしても、宮沢賢治の名前を知らない人はあまりいないでしょう。名前を知っていても、何を書いた人かはピンと来ない…という人でも『風の又三郎』『注文の多い料理店』といわれれば「ああ!」となるはずです。
このように、今や作家として国民に広く知られている宮沢賢治。
しかし彼の生涯を辿ると、あれ?作家じゃないの?という印象を受けるはずです。
そう、その作品が評価されるようになったのは、彼が亡くなった後の話。では生前の賢治はいったい何をしていたのでしょう。
宮沢賢治はどんな人物だったのか、今回はその生涯から人物像を探っていきましょう。
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宮沢賢治はどんな人?
- 出身地:岩手県稗貫郡川口村(現在の岩手県花巻市)
- 生年月日:1896年8月27日
- 死亡年月日:1933年9月21日(享年37歳)
- 『風の又三郎』『注文の多い料理店』などで知られる作家。生前こそ日の目を浴びなかったが、死後作品が広まり、国民的作家になっていく
宮沢賢治 年表
西暦(年齢)
1896年(1歳)岩手県稗貫郡川口村にて、質・古着商を営む父政次郎と母イチの間に生まれる。
1902年(6歳)赤痢を患い、隔離病棟に入院する。
1903年(7歳)町立花巻川口尋常高等小学校に入学。
1905年(9歳)担任の八木英三から読み聞かせしてもらった、五来素川が翻訳の『まだ見ぬ親』に強い感銘を受ける。同年長詩『四季』を執筆した。
1907年(11歳)鉱物や植物、昆虫採集に夢中になる。有志の運営する夏期仏教講習会に参加し、講師の補助役も務めた。
1909年(13歳)6年間全甲の成績(今でいうオール5)で小学校を卒業。県立盛岡中学校へ入学し、寮にて下宿生活を始める。
1911年(15歳)エマソンの哲学書を愛読。短歌を制作するようになる。このころから教師への態度が反抗的になっていった。
1913年(17歳)寮に新しく配属された舎監に嫌がらせをしたとして、4、5年生が全員退寮させられる。賢治は盛岡市北山の清養院、後に徳玄寺に移る。
1914年(18歳)中学校を卒業。鼻炎の手術をするが、術後熱が下がらず入院。その際看護師と恋に落ちるも、両親の反対に遭い失恋。
1915年(19歳)盛岡高等農林学校に首席で入学。片山正夫の『化学本論』が刊行され、これが賢治の座右の書となる。
1917年(21歳)小菅健吉、河本義行、保坂嘉内らとともに同人誌『アザリア』を刊行し、短歌や小品文などを発表する。
1918年(22歳)研究生となり、稗貫郡土性調査の仕事に携わる。結核を患い、友人に「自分の命は後15年ももたない」と語る。童話『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』などを制作。
1920年(24歳)農林学校の研究生を修了。助教授の推薦を受けるが、家業を継ぐために辞退する。仏教団体の国柱会に入会し、信仰を巡って父と衝突。
1921年(25歳)両親に無断で上京。本郷菊坂町に下宿し、印刷所「文信社」に務めるかたわら、国柱会の布教や奉仕活動にも携わる。冬には帰郷し、花巻農学校にて教師を務める。雑誌『愛国婦人』に『あまの川』『雪渡り』を掲載。
1922年(26歳)詩集『春と修羅』の製作を開始。『花巻農学校精神歌』を作詞。妹のトシの死亡により、『永訣の朝』『無声慟哭』などの詩が生まれる。
1924年(28歳)『春と修羅』1000部を自費出版し、翻訳家の辻潤に読売新聞の紙面で称賛される。童話『注文の多い料理店』を刊行。
1926年(30歳)農学校を依頼退職。下根子桜にて独居生活を始める。農業を行うかたわら、近所の青年たちとのレコード鑑賞や合奏、少年たちへの童話読み聞かせなどを行う。冬には上京し、タイプライターやセロ、オルガンなどを習う。
1928年(32歳)伊豆大島を訪問し、伊藤七雄の園芸学校設立の相談に乗る。学校の設立に尽力していたが、持病の結核が悪化し高熱で倒れ、闘病生活へ。
1931年(35歳)東北砕石工場の技師となり、社会復帰。広告文作成や炭酸石灰の宣伝販売を担当。しかし宣伝販売のために上京した際、また高熱で倒れ、遺書を残す。同年『雨ニモマケズ』を執筆。
1932年(36歳)『児童文学』第二冊に『グスコーブドリの伝記』を発表。『岩手詩集』第一集に『早春独白』を発表。その他雑誌にて多岐に渡る作品を発表する。
1933年(37歳)詩『半蔭地選定』『郊外』『県道』、童話『朝に就いての童話的構図』などを発表。9月21日、容体が急変し死没。
宮沢賢治の生涯
成績優秀なオタク少年
賢治は1896年8月27日、岩手県稗貫郡川口村(現在の花巻市)にて、質・古着商を営む父政次郎と、母イチの長男として生まれました。
父の政次郎は仏教の浄土真宗を深く信仰しており、賢治もまた仏教思想に影響を受けながら、幼少期を送ることになります。
なんでも3歳のころには、父の姉であるヤギが唱えるお経を聞いて覚え、暗唱してしまうほどだったとか。
子どもの記憶力には驚かされることがありますが、3歳でお経に興味をもっていたとは、やはり少し変わり者の少年だったのでしょうか。
その後1903年からは花巻川口尋常小学校に入学。
勉強はかなりできたようで、6年間を通して全科目甲…つまり今でいうオール5の成績を残して卒業しています。
この小学校時代の恩師、八木英三に読み聞かせしてもらった五来素川の『未だ見ぬ親』には大変感銘を受けたと賢治は話しており、彼の童話制作のルーツにもなっているとのこと。
また鉱石や植物、昆虫などの採集にも熱中するオタク少年でもありました。
なんでもトコトン突き詰めるオタク気質だったからこそ、同じように勉強にも入れ込むことができたのでしょうね。
自我の芽生え・結核の発症
ただ中学時代は徐々に自我が芽生えだしたのか、教師には反抗的になり、寮の舎監(管理人)に嫌がらせをして退寮させられるなど、優等生とはかけ離れた姿も見せています。
成績にしても卒業生88人のうち60番目だったといい、決して良いとはいえません。
短歌の製作に没頭し始めたのもこのころだといいますから、賢治の中で明確な変化が起こり始めていたことが感じられますね。
こうして一時は反抗心から成績が下がってしまった賢治でしたが、彼はもともと頭の良い少年です。
やればできるとはこのことで、1915年、19歳から通い始める盛岡高等農林学校には首席で入学。
その後研究生となったあかつきには、教授から助教授にと推薦されるほどでした。
またこのころ賢治は生涯悩まされ続ける持病の結核を患っており、友人の河本義行には
と語っています。
当時の賢治は22歳…丁度15年後の37歳で亡くなるというのも皮肉なものです。
転機をもたらした妹トシの死
卒業後、賢治は家業を継ぐことになりますが、宗教団体の国柱会に入信すると、宗教観の違いから父と衝突。
家出をして上京し、国柱会本部のある東京で布教活動を行っています。
宗教観の違いもそうですが、賢治は実家の質屋という職業を毛嫌いしていたらしく、そのこともこの親子の衝突に無関係ではなさそうです。
ただこの家出は半年ほどで終わりました。
妹のトシが結核を患ったと知らせを受けると、賢治はすぐに地元に戻ったのです。
トシはこの後の1922年11月には亡くなってしまい、その際賢治は押し入れにこもって号泣していたとのこと。
トシの死をめぐって『永訣の朝』『無声慟哭』といった詩も生まれ、1924年には賢治の代表的な詩集『春と修羅』も刊行。
現代でも特に有名な『注文の多い料理店』もこのころの作品です。
トシの病気がきっかけで、地元に戻り農学校の教師となった賢治。
そしてトシの死が創作活動に火を点けたこともわかります。
よほど仲の良い兄妹だったのでしょうか…トシの存在が、賢治に大きな転機をもたらしているのです。
晩年は農業と趣味に没頭
1926年、30歳になると賢治は農学校の教師を依頼退職。
花巻市の下根子桜にて、独居生活をしながら、農業を営むようになります。
この独居生活で賢治は近所の青年たちとレコード鑑賞をたしなんだり、子どもたちに童話の読み聞かせをしたりと、職というよりは自分のやりたいことに没頭していくようになりました。
このほかにもタイプライターやセロ・オルガンなどを習ったり…。
死期を悟っていたのでしょうか、残り少ない人生を謳歌しようとしているような、そんな印象を受けます。
案の定1928年8月、園芸学校設立の相談役として駆り出されている最中、高熱で倒れ、ここから闘病生活へ。
一時は回復し父の勧めで砕石工場へ務めるなどもしましたが、またすぐに悪化。
こうして1933年9月21日、賢治は37歳で息を引き取ることになります。
なんでも死に際には
とお願いしたとのこと。
宗教をめぐっては対立していた父も、このときばかりは死ぬまで意志を貫いた賢治を褒めたといいます。
きょうのまとめ
宮沢賢治の生涯を辿ると、宗教に没頭したり教師になったり、はたまた農業を営んだりと、さまざまな経験が詰まっていることがわかります。
死後に日本中から作家として評価されるようになるなど、本人は知る由もなかったでしょうね。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。
① 少年時代は成績トップ。鉱石や植物、昆虫を集めるオタク少年だった
② 妹トシの死を経て、創作活動に火が点いた
③ 晩年は教師を自主退職し、農業や自分の趣味に没頭した
幼少期からオタク少年で、晩年まで趣味に没頭した賢治にとって、童話や詩の製作も、きっとどこまでいっても趣味だったのでしょう。
しかしその趣味をトコトンまで突き詰める性格の彼だったからこそ、素晴らしい作品の数々が生まれたといえます。
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