歴史に「もしも」を持ち込むのはナンセンスかもしれません。
ですが、もしも坂本龍馬が
松平慶永(春嶽)に出会っていなければ、
そして、もしも慶永が別の判断をしていたら……。
坂本龍馬という人物は、歴史の舞台に登場していなかったかもしれません。
今回は松平慶永が龍馬に施した「恩」にまつわるエピソードについて、簡単に紹介していきます。
タップでお好きな項目へ:目次
勝海舟と坂本龍馬を引き合わせたのは勘違い?
1862年7月、松平慶永のいる江戸の越前藩邸にあの男が訪れたといいます。
その男とは、幕末のヒーロー・坂本龍馬。
彼の話に感じ入った慶永は、
「勝海舟・横井小楠への紹介状を渡した」
と記録に残しています。
そして龍馬の人生にとって、勝海舟との出会いは非常に意義のあるものでした。
関連記事 >>>> 「その後の日本を変えた勝海舟と坂本龍馬の関係とは?」
「坂本龍馬へ勝海舟を紹介した。」ということですね。
というわけで、慶永はまさに龍馬の大恩人と言えますね!
ところがこちらの話、「慶永の勘違いなのでは?」 という見方もあります。
根拠は龍馬とも親交があった、樋口新吉という土佐藩士の日記。
これによると、「1872年7月、龍馬は大坂にいた」とあります。
すると江戸にいた慶永とは会えなくなりますね……。
しかも、慶永の記録に同行者として登場する、岡本という人物がいるのですが、彼は土佐藩士。
当時、土佐藩を脱藩していた龍馬と行動をともにしていた可能性は低いと考えられます。
実はその5年後、龍馬は岡本と一緒に、福井にいた慶永のもとを訪れています。
この時の龍馬は、すでに脱藩の罪を許されていました。
そのため二人が行動をともにしていても、何ら不思議ではありません。
ということで、慶永はもしかしたらこの時の記憶と思い違いをしたのかもしれませんね。
11億円もの資金援助!?
かといって、松平慶永は坂本龍馬の恩人であることには変わりありません。
なぜなら慶永は、神戸海軍操練所創設のための資金を援助しているのです。
勝海舟の命で福井を訪れた龍馬は、慶永から5千両を借りることに成功。
現在の価値になおすと、なんと11億円という大金でした。
龍馬の交渉術も素晴らしかったものと想像できますが、それを払える慶永もすごいですね。
きょうのまとめ
今回は松平慶永(春嶽)と坂本龍馬の関係について、簡単に紹介しました。
① 坂本龍馬を勝海舟に紹介した、というのは松平慶永の勘違いかもしれない
② 神戸海軍操練所創設のため、慶永は龍馬に巨額の資金援助を行った
こちらのサイトでは他にも、松平慶永(春嶽)にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。
松平慶永の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>>「松平慶永とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す