松平定敬の子孫と家系図|高須4兄弟とは?養子・定教との関係は?

 

幕末期、京都所司代となり、将軍・徳川慶喜に重用された

松平定敬まつだいらさだあき

10代後半~20代前半という若い時代に、「長州征討」や「戊辰戦争」などの修羅場を経験した、ある種苦労人と呼べる人です。

定敬には、かなりおもしろい逸話がいくつもあるのですが、その割に注目されることが少ないんですよね。

それゆえ、大河ドラマ『青天を衝け』では、どんな活躍をしてくれるのかに期待がかかります。

今回はそんな松平定敬の子孫について。

家系図からは、幕末に定敬の置かれた環境、桑名藩主となってからの興味深い親子関係などが見えてきました!
 

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松平定敬の家系図

松平定敬まつだいらさだあき

松平定敬(徳川林政史研究所蔵、1862年)
出典:Wikipedia

以下が松平定敬の家系図です。

松平定敬の家系図

 

高須4兄弟とは


高須藩主松平義建よしたつの子息はそれぞれ養子に出た先で名家の当主となりました。

なかでも徳川宗家と関わりの深い藩の藩主となった4人を「高須4兄弟」と呼び、松平定敬はそのなかでは一番下の弟。

14歳のころ、桑名藩主松平定猷さだみちが亡くなったため、定猷の長女・初姫の婿養子という形をとり、桑名松平家を相続することとなります。

よく知られているのは京都所司代となり、兄・松平容保かたもりと京都の守備を担ったことですが、実はこのふたり、10歳以上も歳の離れた兄弟です。

容保は定敬が生まれた年に会津松平家の養子となっているため、共に幼少を過ごしたわけでもありません。

幕末の動乱のなか常に行動を共にしたふたりですが、もともとは従兄のお兄ちゃんのような、たまに顔を合わすぐらいの感覚だったのかも。

そのほかのお兄さんにしても、次男の徳川慶勝よしかつは、徳川御三家でも筆頭にあたる尾張藩主

五男の徳川茂徳もちながは、徳川慶喜が将軍となったあと、慶喜に代わって一橋家当主になっていたりと、かなりのエリート兄弟であることがわかります。

石高で表すと…

・尾張藩…62万石

・会津藩…28万石

・桑名藩…14万石

・一橋家…10万石

といった感じです。

一橋家の石高が少ないのは、そもそも江戸城内に住まい、徳川宗家の家族という位置づけだから。

地位は高くても領地は持っていないのです。

一方、定敬の桑名藩は14万石ですが、これぐらいの石高だと、たくさんの兵を京都に駐留させ続けるのはかなり厳しかったみたいです。

それでも定敬は京都所司代を務め続けたため、藩の財政は火の車。

戊辰戦争で定敬が新政府に抗戦、桑名藩の家老たちが降伏と意見が分かれたのは、このあたりの事情も関係があったようです。
 

松平定敬の子孫

続いて、定敬の子孫についてです。

桑名松平家はどのようにして、受け継がれていったのでしょうか?

養嗣子・定教

もとはといえば、松平定猷には嫡子の定教さだのりがいました。

この定教が当時3歳と幼過ぎたため、定敬が藩主に。

そして定教が実父を亡くしていたため、定敬が養父となります。

このあと定教は藩主となり、定敬のあとを継いでいくこととなりました。

となると、桑名松平家には定敬の血はもう流れていないの?という話になりますが、

実はここからがまたおもしろくて、定敬の四男定晴が、定教の長女栄子の婿養子になっているのです。

定教は幕臣・山岡鉄舟の娘鈴子と結婚したのですが、ふたりは男児に恵まれなかったようですね。

こうして桑名松平家は、世代をひとつ隔てて定敬の実子が継ぐこととなります。

ちなみに定敬と定教は非常に仲が良かったようで、明治期には共に英語を学んだり、アメリカ留学をしたりもしました。

その経験を活かして定教は外務省へ入り、イタリア公使館で書記官を務めることに。

定敬が海外に連れ出したことで、才能が拓かれたといっていいでしょう。

血のつながりはなくとも、3歳からの養子とあればもう、実の親子のようなものですよね。

その後の子孫たち


その後、定敬の子孫で著名人を挙げるとすれば、昭和期に活躍した心理学者松平定康さんがおられます。

定康さんは東大心理学研究室にも属していた研究者で、

『能力開発と心理テストーTPI-GAD・PAC・CONの応用ー』などの書籍も刊行しました。

TPIは「Todai Personality Inventory(東大版総合人格目録)」の略で、東大独自の心理テストのこと。

定康さんはその開発者にあたるのです。

心理学研究室としては、日本最古にあたる東大。

そのなかでも腕利きだった定康さんは、日本の心理学界の権威とも呼べるのではないでしょうか。

定康さんの次の当主は、息子の定幸さんで、一般企業に勤められているようです。

今でも子孫が取材を受けたり、人前で話したりする機会はあるのでしょうか?
 

きょうのまとめ

松平定敬の家系図からは、エリートの兄たちに囲まれた境遇、養子の定教との絆などを感じることができました。

最後に今回のまとめ。

① 松平定敬はそれぞれ名家の当主となった「高須4兄弟」の一員。兄容保とともに京都の守備を務めたが、桑名藩の財力では、実はギリギリだった。

② 定敬は前藩主の長男・定教を養子にし、次期藩主とした。ふたりは実の親子のように仲が良く、ともにアメリカ留学なども経験。定教には男児が生まれなかったため、定敬の四男が婿養子となる。

③ 子孫の著名人には、心理学者の松平定康さんがいる。「TPI」という東大独自の心理テストを開発した。

やっぱり家族は仲が良いのが一番。

幕末にはいろいろと大変な思いをした定敬ですが、明治以降は幸せに暮らせていたのではないでしょうか。

 
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