20歳の若さでイタリア・フィレンツェを牽引するメディチ家の当主となり、
15世紀のフィレンツェを大きく繁栄させることに貢献した
ロレンツォ・デ・メディチ。
ロレンツォは政治手腕も優れていましたが、彼の功績はヨーロッパのルネサンス文化を最盛期へと導いたことにもあります。
当時の外交には芸術家の国外派遣が重宝されていました。
しかし時代背景のおかげではなく、そういった外交を成立させたのは、彼の芸術への理解の深さがあってこそのものでしょう。
芸術と政治を結びつけ、まさに一時代を築いたロレンツォは一体、どんな人だったのでしょうか。
その生涯を辿ることで、彼の人物像に迫っていきましょう。
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ロレンツォ・デ・メディチはどんな人?
- 出身地:イタリア・フィレンツェ
- 生年月日:1449年
- 死亡年月日:1492年(享年43歳)
- 15世紀のイタリア・フィレンツェを繁栄に導いた政治家。多くの芸術家を支援することで、ルネサンス文化の全盛をも担った。
ロレンツォ・デ・メディチ 年表
西暦(年齢)
1449年(1歳)フィレンツェの僭主(君主)の座にあった父ピエロの長男として生まれ、幼少より将来の指導者としての教育を受ける。
1469年(20歳)父ピエロが死没したことにより、メディチ家当主の座を継承。実質フィレンツェの最高権力者となる。
1469~1478年(20~29歳)優れた外交手腕によって、ローマ帝国やナポリ王国と親交を図り、フィレンツェの平和を保つ。
1478年(29歳)パッツィ家の陰謀により、弟ジュリアーノを亡くす。このとき暗殺者を処刑したことをきっかけに、パッツィ戦争が勃発。これを抑えてさらに権力を確立する。
1478~1492年(29~43歳)引き続きフィレンツェの繁栄を担っていく。そのかたわら、多くの芸術家のパトロンとなり、各国へ派遣することでルネサンス文化を最盛期へ導く。
1492年(43歳)持病の痛風によって死没。死に際、公金に手をつけていたことなどを修道士サヴォナローラに懺悔した。
ロレンツォの人柄
祖父コジモの教育
ロレンツォが外交力に優れ、芸術に深い理解を示す人柄をもったのは、彼を教育した祖父コジモ・イル・ヴェッキオの影響によるものでしょう。
メディチ家は銀行家として大きな業績を築いたコジモの代で、フィレンツェの支配権を確立しました。
要するにコジモは代々続く当主のなかでも、抜きんでた才能の持ち主だったのです。
またコジモは銀行家としてその地位を得ただけでなく、有り余る財力で芸術の保護にも注力していました。
ロレンツォがルネサンス文化を最盛期へ導いたとするなら、コジモはルネサンス文化の基礎を作ったといえるでしょう。
そんなコジモが手塩をかけて育てたロレンツォは、当主の座に就く前から、ナポリ王国の王族と交流するなどの実践を積み、その外交力を確立させていたのです。
祖父の教育と、若いころから多くの交流を重ねた甲斐あってか、ロレンツォは多くの人から好かれる人物に成長しました。
彼はそれほど容姿が優れていたわけではないのですが、ベノッツォ・ゴッツオリが描いた肖像画では美少年に描かれています。
いかに人柄で人々を魅了していたかが垣間見えます。
若くして多くの肉親の死を経験する
彼は20歳の若さで父ピエロを失い、当主の座に就いています。
また29歳のころには、メディチ家を妬んでいたパッツィ家が仕向けた暗殺者によって、弟のジュリアーノを亡くしました。
この事件でロレンツォ自身もパッツィ戦争の混乱に巻き込まれますが、彼はその危機も持ち前の政治力で乗り切って見せます。
つまりロレンツォは暴動が起きようと抑えられるぐらいの人徳を持ち合わせていたのです。
またこのように身近な人の死に多く直面したことで、万人に対して真摯に向き合えるその人柄がより強固になっていったとも考えられます。
ローマ帝国やナポリ王国との均衡を保てたことや、多くの市民から支持を受けていたことも、結局は彼の人柄によるものではないでしょうか。
ミケランジェロやダ・ヴィンチなど、多くの芸術家を支援
ロレンツォがパトロンとして支援した芸術家のなかには、誰しも知っているであろう、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ミケランジェロといった名前が軒を連ねます。
特にミケランジェロに関しては、幼少のころからその才能を見抜き、自宅に住まわせていたこともあるのだとか。
その審美眼もさることながら、注目すべきはロレンツォの面倒見の良さです。
彼らの関係は生涯に渡って続き、ロレンツォの息子の代にも引き継がれていきました。
芸術家を支援したのはもちろん外交に活かす意味もあったのですが、それをわかったうえで慕われている辺りが、他の政治家には成せないことなのでしょう。
この時代にヨーロッパで名を上げた芸術家たちの活躍は、多くはロレンツォの支援があってこそだといえます。
自身の政治を批判した修道士サヴォナローラにも寛容だった
国民とも、乱立していた各国とも良好な関係を築いていたロレンツォでした。
しかし晩年に近付くと、彼に対して否定的なサヴォナローラという修道士が登場します。
サヴォナローラは、メディチ家にも馴染みのあるサン・マルコ修道院にて、メディチ家の支配…つまりはロレンツォの政治を批判する説教を行いました。
国をまとめる立場の者としては、こんなことをされてはたまったものではありません。
普通は説教を禁止するなり、権力を使ってサヴォナローラに相応の罰を与えるなりするものでしょう。
しかしロレンツォは、サヴォナローラの活動を禁止するようなことはせず、ただ静かに関心を寄せていたというのです。
ロレンツォの政治にもやはり欠点があり、彼の代でメディチ銀行の経営が傾く、国の公金にも手をつけてしまう…など、後ろめたいことが少なからずありました。
死に際にはサヴォナローラに向かって懺悔をしたともいいます。
そういった非を認める気持ちから、彼は批判活動を許容していたのではないでしょうか。
こう聞くとロレンツォは大きく道を踏み外してしまったようにも聞こえますが、何もかも上手く運べる政治家などそうそういるものではありません。
欠点を踏まえても支持できるかどうかということには、彼のようにきちんと非を認める姿勢も関係しているのではないでしょうか。
きょうのまとめ
ロレンツォは祖父の教育や幼少からの環境もあって、多くの人から認められる人徳をもった政治家となりました。
しかし天は二物を与えずとはよくいったもので、彼は財政面に多大な難を抱えることになります。
ただ、無理のある政治だった…などといっても、彼がフィレンツェの繁栄、そしてルネサンス文化を最盛期に導いた事実に変わりはありません。
ロレンツォは紛れもなく、国民の幸せのために尽力する政治家だったといえます。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。
① 若いころから多くの外交に携わったこと、肉親の死を多く経験したことが、万人が認めるロレンツォの人柄を形成した
② ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、世界的に認められる芸術家が活躍できたのはロレンツォの支援があってこそ
③ 自身の政治を批判したサヴォナローラの活動にも寛容に対応し、自らの非を認める姿勢を示した
彼の生い立ちを見ていると、人柄を作っていくうえで、人との関わり方がいかに大切なことかが伝わってきます。
どんな人と出会い、どのように人と向き合って行くのか…ロレンツォの生き様は、自分磨きの大きなヒントになるのではないでしょうか。
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