戦国武将の戦に向かうときの勇壮な出立ち。
特に兜は武将たちのさまざまな思いが込められたもので、派手で勇ましいものが多く伝えられています。
伊達政宗の三日月の兜など有名なものもありますね。
ならば、知将黒田官兵衛の兜はどのようなもので、
どんな意味がこめられたものだったのでしょうか。
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官兵衛の兜とその意味
『銀白壇塗合子形兜』。
これこそ黒田官兵衛の合子形兜として有名な兜です。
兜の外観
形状は、盃やお椀をひっくり返したような一風変わった形の兜。
六枚張の内鉢の上に薄い鉄板で伏せた椀状の外鉢をかぶせた形状になっています。
外鉢は鉄地に銀箔を押し、その上から透漆をかけています。
白檀塗技法と呼ばれる方法で独特のつやのある赤褐色を表現します。
兜は椀の形をした以外は派手な装飾のないシンプルなもの。
これが「如水の赤合子」(如水は官兵衛の号)として畏れられた官兵衛の兜です。
結婚祝いの品だった兜とその意味するもの
この兜は官兵衛が結婚するときに舅となる、志方城主・櫛橋伊定から贈られたものと言われています。
合子形兜の「合子」とは「蓋つきのお椀」という意味で、身と蓋が一対で成立する椀に夫婦の間柄を例えたものかと思われます。
「合」という文字には集まる、合わせる、結ぶ、連れ添うなど、結婚に相応しい言葉の意味が含まれています。
また、戦場においては椀が「敵を飲み干す」という意味もありました。
巧みな戦略で相手を陥落させる官兵衛に相応しいデザインです。
官兵衛は結婚のプレゼントとして申し分ないものを妻の父親から貰ったのでした。
盛岡に現存する赤合子
実は官兵衛のこの兜は、盛岡市にある「もりおか歴史文化館」に現存します。
現物は朱の色もまだ見られ、「赤合子」と呼ばれた名残りと共に、鉄の重厚さと強さを感じさせる機能的な兜です。
これを見ると、官兵衛がどの戦さでこの兜を使ったのかを知りたくなるものですが、実際にはどこでどれほど使用された兜かはよく分かっていません。
この兜が福岡から盛岡に伝わったのにはある事件が関係しています。
1632年の黒田騒動と呼ばれるものです。
官兵衛はのちにその兜を家臣の栗山利安に与えました。
そして官兵衛の孫にあたる黒田忠之の時のお家騒動で、利安の子である利章が黒田の盛岡藩にお預けとなったとき、持ち込まれたということでそれが盛岡に残されていたのす。
兜に願いが込められた官兵衛夫婦の絆
官兵衛の兜に込められた椀の意味には夫婦として一対となる、という意味があります。
官兵衛とその妻光姫との間は、まさにその願いに応えるような夫婦仲でした。
側室のいない戦国武将、黒田官兵衛
多くの戦国武将の結婚は、同盟関係を強化するための政略結婚が殆どでした。
嫁いでくる女性は、忠節の証しを立てるための人質の意味もあり、相手の武将の娘や姉妹など血縁の濃い女性を貰うことになります。
特に正室の場合は、結びつく家同志の問題が殆どで顔も確認せずに結婚をきめることが普通だったとか。
側室になると、多少の恋愛関係があったかもしれませんが、基本は女性側に選ぶ権利などありません。
現代からは考えられないような男性優位な社会でした。
しかしそんな時代において官兵衛は武将にしては珍しく、生涯側室をもたずに正室である光姫と添い遂げました。
しかし、二人が夫婦である間にもいろいろなことが起きました。
夫官兵衛は出世をしていきますが、途中息子が人質に取られたり、その息子が殺され掛かったり、彼自身が幽閉されたこともありました。
そんな山あり谷ありの中で妻としての役目を果たし、夫官兵衛が安心して戦場に出掛けられるように尽くした光姫は
「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と讃えられた女性でした。
きょうのまとめ
実戦的で、戦略家の官兵衛に相応しく相手を飲み込むような意味合いの兜は、
同時に彼の唯一の妻である光姫に対する愛情の証しであったのかもしれません。
激しい戦場で戦いながらも、妻の元にもどれば穏やかな夫婦仲であったことが
官兵衛の慰めとなったことでしょう。
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