「三十年戦争」を終結させ、学芸の女王とも言われた17世紀スウェーデンの女王、
クリスティーナ。
突然の退位に、両性具有説など様々な逸話を遺しています。
スウェーデン女王クリスティーナとは、一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は型破りな女王の生涯に迫ります。
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スウェーデン女王クリスティーナはどんな人?
- 出身地:スウェーデン
- 生年月日:1626年12月8日
- 死亡年月日:1689年4月19日(享年63歳)
- ヴァーサ朝スウェーデン王国の女王、三十年戦争を終結させた。
スウェーデン女王クリスティーナ 年表
西暦(年齢)
1626年(0歳)スウェーデン王国の第4子、次期王位後継者として誕生。
1632年(6歳)父王の戦死により女王となる。
1639年(13歳)評議会に参加し始める。
1644年(18歳)親政を開始。
1648年(22歳)三十年戦争を終結させる。「ウェストファリア条約」の締結。
1654年(28歳)王の座を退位。ヨーロッパ各地を周遊後、ローマに定住。
1689年(63歳)死去。
スウェーデン女王クリスティーナの生涯
ここからは早速、スウェーデン女王クリスティーナの生涯について主な功績と共に辿っていきましょう。
後継者として
1626年に誕生した後のスウェーデン女王クリスティーナ。
彼女の父親は「北方の獅子」という異名を持つ勇猛果敢な国王、グスタフ二世・アドルフです。
この父王は即位して間もなく周辺諸国との戦で次々と勝利を収め、スウェーデン王国の領土を広げ大国に仕立て上げた人物。
子供を幼くして相次いで亡くし、難産の末にようやく生まれた4人目の子供がクリスティーナでした。
父王の考えの下、彼女は世継ぎになることを視野に入れた教育を幼い頃からされることになります。
クリスティーナは早朝から授業を受け、乗馬や狩猟などのスポーツにも取り組みました。
厳しい教育と父親譲りの知性と行動力が、後に彼女を歴史に名の残る女王へと育てていったのです。
三十年戦争の終結
三十年戦争に参戦。
三十年戦争とは、神聖ローマ帝国で1618年からちょうど30年に渡り繰り広げられた戦争のこと。
旧教徒であるカトリックと新教徒であるプロテスタントが、その覇権を巡り国土を巻き込んで行った大規模な戦争です。
クリスティーナの父親は、この戦争に介入するやまたも功績を遺していきます。
しかしその2年後、彼は戦の最中38歳で戦死してしまいました。
こうして王女クリスティーナは、わずか6歳にしてスウェーデン女王となったのです。
さすがに、即位当初から数年の間は重臣たちが主な政治を行うことになりましたが、勤勉かつ元から聡明だったクリスティーナ女王。
13歳になる頃には評議会に参加するようになります。
そこからは、徐々に国王としての才気を覗かせていったのです。
1644年、18歳になるとクリスティーナ女王は自ら政治を執り行う親政を開始。
その4年後には、各国が入り乱れ複雑化していた三十年戦争を条約によって終結させました。
このとき締結されたのが「ウェストファリア条約」です。
これにより、スウェーデン王国は広大な領土を獲得することとなりました。
突然の退位
スウェーデン王国にとって有利な条件の下、三十年戦争を終結させたクリスティーナ女王。
しかしそこから彼女は様々な問題に直面していくことになります。
例えば、
・縁談と世継ぎの問題
など。
ひとつ目に関しては、スウェーデンを文化的に活気ある国にするために考えられたものがほとんどでしたが、先の戦争の影響と彼女自身の金銭管理能力の欠如により発生してしまった問題でした。
ふたつ目に関しては、男児の世継ぎたちと同じように厳しく育てられ知性も政治能力もある彼女にとって、結婚して実権を夫に渡すということは耐えがたいものだったのです。
周囲から寄せられる結婚への期待と、自身の心の葛藤の末に、クリスティーナ女王はやがて政治への関心も失っていくことになります。
そして1654年、28歳の時に自らの意思によって王の座を退くことにしたのです。
ちなみに彼女はこの時にはっきりと、自分は一生結婚しないと宣言しています。
退位に際して王位を譲渡されたのは、クリスティーナ女王の結婚相手の最有力候補者だったカール10世でした。
カトリックに改宗
こうして元スウェーデン女王となったクリスティーナは、本国にある莫大な資産を元手に以後亡くなるまでの間を悠々自適に過ごしました。
まず、ヨーロッパ各地を周遊した後にイタリアのローマに定住。
そして彼女は、そこで堂々とカトリックに改宗するのです。
クリスティーナの生まれ育ったスウェーデン王国はプロテスタントだったのですが、女王となってからは徐々にカトリックの思想に傾倒していました。
彼女の父親はプロテスタントの援護者として三十年戦争に参戦していて、カトリックの兵士によって命を奪われています。
女王の突然の独身宣言と退位に加え、信仰まで変えてしまうという破天荒ぶりに、スウェーデンの国民は何度驚かされたことでしょうか。
しかし当の本人は、女王退位後その自由を存分に謳歌しました。
美術品や書物のコレクターとなり、多くの文化人たちと交流し、彼等のパトロンになったりもしています。
一方で王位を譲渡したカール10世が崩御した時など、何度かスウェーデンの国王に復帰しようとする動きも見せていますが、それがどこまで本気だったのかは分かっていません。
いずれにせよ、周囲を戸惑わせながらも自身の思うままに生きたスウェーデン女王クリスティーナは、63歳でその生涯を閉じるまで自由を貫いたのでした。
スウェーデン女王クリスティーナにまつわるエピソードや伝説
ここではスウェーデン女王クリスティーナの人物像に迫るべく、彼女に関する伝説をご紹介していきます。
性別不明説
男児さながらに育てられ、また自らもそれに適応していた女王クリスティーナ。
実は彼女は性別に関して様々な逸話が残っていて、中には真剣に議論されていた例もあるのです。
例えば、
・両性具有だった
・着飾ることを好まず成人後も男装をした
・結婚はしなかったが恋人は多く、その中には美女もいた
等々。
どれも噂の域に留まるものであるため、真実は永遠の謎に包まれていますが、彼女の破天荒なキャラクターが様々な噂を生むきっかけになったとも考えられるでしょう。
熱量
幼い頃には早朝4時からの授業を受けていた女王クリスティーナ。
彼女はその後の生活でもかなりのショートスリーパーだったようで、睡眠時間は3~4時間程度だったとか。
父親は国際色豊かな文武両道を行く人物でしたが、その気質を受け継いだクリスティーナもその能力を存分に発揮しました。
言語に関して言うと、
・ドイツ語
・スペイン語
・ラテン語
を操ることができ、聡明な女王の噂はヨーロッパに広く知れ渡っていたのです。
しかし学習意欲旺盛で知的な分野に優れていた彼女の熱量は、当然周囲をも巻き込んでいました。
「我思う、ゆえに我あり」の名言で有名な近代哲学の祖、デカルトもその代表的な一人です。
20代前半の頃に彼の思想に心酔したクリスティーナは、直接講義を受けるためにフランスから呼び寄せます。
当時既に50代を迎えていたデカルトは、体力面を考慮して最初は辞退しました。
しかし女王クリスティーナは、1949年に海軍の軍艦によって特使を派遣。
フランスまで迎えに行かせたのです。
こうしてデカルトはクリスティーナの熱量に押されるかたちでスウェーデンへと赴き、講義を行うことになりました。
熱心に講義を行ったデカルトでしたが、冬のストックホルムの早朝毎日行われるそれは彼の身体には堪えられず、翌年の2月に風邪をこじらせ死んでしまったのです。
きょうのまとめ
今回は、型破りなスウェーデン女王クリスティーナについて、その生涯や主な功績を見ていきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、スウェーデン女王クリスティーナとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 「三十年戦争」を終結させた。
② 幼くして女王となり、学芸に秀で政治能力も高かった。
③ 独身宣言、王位の譲渡、かつて敵だった宗派に改宗等、破天荒とも言えるエピソードが絶えない。
知性と行動力を武器に、堂々と自由に生きたスウェーデン女王クリスティーナ。
彼女の生き様を見ていくと、人生を楽しむとはどういうことか、教えてくれている気がします。
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