光武帝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

光武帝こうぶていは、後漢王朝の初代皇帝です。

天下統一までの武勇と統一後の治世だけでなく、

皇后、陰麗華いんれいかとの美男美女・相思相愛ぶりも評判だったようです。

日本では、漢委奴国王の金印を使節にあたえた皇帝としても有名です。

光武帝とはどんな人物だったのでしょうか。

 

光武帝はどんな人?

プロフィール

光武帝肖像
出典:Wikipedia

  • 出身地:現在の湖北省棗陽そうよう
  • 生年月日:前5年1月15日
  • 死亡年月日:57年3月29日(享年62歳)
  • 後漢王朝の初代皇帝。

 

光武帝 年表

年表

西暦(年齢)

前5年(1歳)現在の湖北省棗陽市に生まれる。

23年(29歳)陰麗華と結婚。

23年(29歳)反王莽の叛乱はんらん軍として挙兵。

25年(31歳)皇帝に即位。

36年(42歳)天下統一。

40年(46歳)五銖銭の鋳造を開始、貨幣制度を整備。

57年(63歳)倭の奴国の使者に金印を与える。

57年(63歳)死去。

 

時代背景

劉秀りゅうしゅう(後の光武帝)は、新末後漢初しんまつごかんしょの混乱期に、新への反政府軍として挙兵します。

光武帝、自ら兵を率いて前線に立ち連戦連勝。

漢王朝の再興として後漢王朝を建てました。

新が滅亡へとむかうその時代背景、まずはその発端となる、反乱軍の出現からみていきましょう。

新末後漢初は、新(8年-23年)が滅びて光武帝が後漢(25年-220年)を建てるまでの便宜的な時代区分。

新は、前漢の外戚であった王莽おうもうが前漢の後に立てた王朝。

反乱軍の出現

西暦8年、王莽が新を建立。

理想主義・復古主義的で現実離れした政治を行ったため各地に不満がたまり、反乱が起こりました。

そして各地に出現した農民反乱軍の2大勢力が赤眉せきび軍と緑林りょくりん軍です。

赤眉軍とは?

琅邪郡海曲ろうやぐんかいきょく県(現在の山東省日照市東港区)の県庁に勤めていた

呂育りょいくという男が些細なことで県令により捕らえられて死刑にされます。

そこで、母親の呂母りょぼが金を使って人を集めて、県令を襲って敵を討ちました。

この時に集まった者たちが山東各地の流民たちを吸収して赤眉軍となります。

この集団は敵と味方の区別のために眉毛に赤い染料を塗ったことから、この名前がつけられました。

緑林軍とは?

緑林山(現在の湖北省荊門市こほくしょうけいもんし)を本拠地に農民を吸収して膨張した反乱軍が緑林軍です。

この中に劉秀(後の光武帝。以降、光武帝)と兄の劉縯りゅうえんがいました。

王莽は当然これらの反乱軍に対して討伐軍を送ります。

しかし、22年に赤眉軍に大敗。

続く23年には緑林軍の光武帝に決定的な敗戦を喫します。

この敗戦をきっかけに全国に反王莽の群雄が起こり、王莽は長安に乱入した群盗により殺され、新は一代で滅びます。

 

光武帝に関するエピソード

光武帝は美男で平凡な漢宗室の一人でした。

しかし、緑林軍に合流したあたりから頭角を現し、その武勇と智謀それを慕って集まった家来たちの活躍により連戦連勝。

ついには皇帝に即位します。

また、挙兵の年に結婚した陰麗華は光武帝が少年時代からあこがれ続けた地元南陽で評判の美人でした。

光武帝はスーパーマン!?

光武帝は文武に優れ、皇后との愛も貫いた超人的な英雄でした。

諸葛亮は

諸葛亮

光武帝の臣下は韓信や張良に劣らないが、

光武帝自身が驚異的な武勇と神のごとき知謀ちぼうを持っていたため、臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった。

一方前漢の始祖・劉邦りゅうほうは粗略であったために韓信・張良が賞賛されやすい武将や軍師としての功を挙げることとなった。

と述べています。

諸葛亮:
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は孔明。

韓信:
中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。

張良:
秦末期から前漢初期の政治家・軍師。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。

即位後、内政では

・身分制度

・貨幣制度

・統治機構改革

・儒教の振興

対外政策では

・直轄・間接支配の明確化

・朝貢の拡大

等々

の善政を敷きました。

漢委奴国王金印はその一端だといえるかもしれません。

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雲台(うんだい)二十八将とは?

光武帝自身が優秀だったため家来の功績が目立ちませんが、実は素晴らしい家来に恵まれていました。

後漢2代・明帝は、洛陽南宮の雲台に光武帝の天下統一を助けた28人の功臣の肖像画を描かせています。

「みな風雲に乗じて智勇をふるい、志操と才能とを兼ね備えた者たちである。」

と評されています。

また、雲台二十八将は天下統一の後、前漢初めの功臣のような粛清を一切受ていません。

光武帝の戦い方とは?

光武帝は驚異的な武勇の持ち主で、馬に跨り自ら得物を振って敵を陥落させ、向かうところすべて打ち破った名将とされています。

西暦23年、昆陽(現在の河南省平頂山市葉県)の戦いでは、王莽の新軍42万の大軍に3千人で突撃して中央突破。

その大将である王尋おうじんを斬り、それに調子づけられて味方数万も参加し、ついに壊滅させました。

この戦いが新の滅亡を決定づけます。

皇帝に即位した後も、100万の軍勢を率いていながら自ら前線に立ち武器を手にして敵を蹴散らしたといわれています。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

光武帝についていかがでしたでしょうか。

光武帝とは?

① 王朝の創始者らしくない、みずから武勇・智謀に優れた人

② 容姿端麗で、皇后も美女で評判

③ 漢委奴国王の金印は光武帝の善隣ぜんりん外交のしるし

と言えるのではないでしょうか。

 

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