小早川秀秋と言えば、関ヶ原の戦いで歴史的な裏切りを行いました。
東軍勝利に貢献した武将ですが、歴史上の評価は芳しくありません。
戦後、宇喜多秀家の旧領(現在の岡山県)55万石を得ますが、その2年後の1602年に没しています。
満20歳の若さでした。
跡継ぎがなく、お家は断絶となりました。
なぜ、20歳という若さで彼は没したのでしょうか?
その真相に迫りたいと思います。
諸説を読み解く
自殺説
「裏切りを悔やんで心を病み、自殺した」という説が今でも残っています。
自身の裏切りで東軍勝利、徳川幕府成立につながりました。
しかし、西軍についた諸将を死の淵に追いやったことも事実です。
彼なりの苦悩はあったのでしょう。
また、裏切りの功績で得た地は西軍主力の宇喜多家の旧領であり、領民の感情を考えると新領主を快く迎えたとは思えません。
それこそ、「招かれざる客」だったと思います。
こうした事情を勘案すると「自殺説」も考えられそうです。
肝硬変説
それに対して、「肝硬変」で死亡したという説があります。
医師・ 曲直瀬玄朔は秀秋を診察しています。
曲直瀬玄朔は安土桃山時代に活躍した医師です。
記録によれば秀秋は大量の飲酒をしており、内臓に硬い部分があったとも言われ、肝硬変だった可能性があります。
「嘔吐を繰り返し、赤い尿が出ていた」
という記述もあり、肝性脳症を併発していたことも考えられます。
肝性脳症を併発すると、判断力に遅れが生じます。
秀秋は関ケ原の戦いで最後までどちらにつくか迷っていて、通説では優勢な方に加勢しよう見極めていたと言われています。
しかし、肝性脳症を併発していたと仮定すれば、違った見方ができます。
判断力がかなり低下して、逡巡していたことが考えられ、最後は徳川家康が小早川陣営に鉄砲を撃ちかけてきました。
そこで秀秋はようやく態度を明らかにし、東軍に寝返り、西軍を攻撃したのです。
一連の動きから「肝硬変」だった可能性はありそうです。
戦後、その肝硬変が悪化して死亡したとも考えられます。
きょうのまとめ
当時は15歳頃から飲酒する習慣があったと言われています。
飲酒は肝臓機能だけでなく、脳の発達に影響します。
また、当時は「戦争」という相当なストレスがあり、深酒もたびたびあったことでしょう。
現代人からは想像できない量を飲んでいたかもしれません。
秀秋の死因が「肝硬変」だったという説もうなずけます。
現代でも酒で体を壊す人は少なくありません。
秀秋も思うようにならないウサを酒で晴らしていたのかもしれませんね。
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