生涯に3万点もの作品を残し、その革新的な作風から浮世絵界はもちろん、世界にも多大な影響を与えた
浮世絵師・葛飾北斎。
1998年に刊行されたアメリカの『LIFE』誌では、「この1000年間で偉大な業績を挙げた人物100人」に日本人で唯一選ばれた人物でもあります。
また日本の漫画の歴史は北斎から始まっているという声もしばしば。
ちょっと功績が行き過ぎていて、どんな人物かとっても気になりますよね…。
そこで今回はその生涯を通して、葛飾北斎の人物像に詳しく迫ってみましょう。
その壮絶な生き様に「ひとつのことに没頭するとはこのことを言うんだな…」と痛感させられるはずです!
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葛飾北斎はどんな人?
- 出身地:武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の墨田区)
- 生年月日:1760年10月31日
- 死亡年月日:1849年5月10日(享年88歳)
- 『北斎漫画』『富嶽三十六景』などの作品でヨーロッパにジャポニズム文化を巻き起こすなど、世界でもっとも注目された浮世絵師
葛飾北斎 年表
西暦(年齢)
1760年(1歳)武蔵国葛飾郡本所割河水(現在の墨田区)にて、農家の息子として生まれる。
1764年(4歳)幕府御用達の鏡職人・中島伊勢の養子になる。
1774年(14歳)中島家を後にし、貸本屋にて住み込みで働く。後に木版彫刻師にも弟子入り。
1778年(18歳)人気浮世絵師・勝川春章に弟子入り。勝川派だけでなく他派や洋画にも興味をもち、あらゆるジャンルの絵を学んだ。
1779年(19歳)勝川春朗の画号で浮世絵師としてデビューを果たす。
1794年(34歳)他派を積極的に学んでいたことを理由に勝川派を破門される。
1795年(35歳)北斎宗理の画号で琳派の頭領となる。狂歌絵本の挿絵や摺物を中心に活動。
1798年(38歳)北斎辰政の画号で独立。どの流派にも属さないと宣言する。
1805~1814年(45~54歳)葛飾北斎の画号を名乗るようになる。読本挿絵を中心に活動し、近代漫画の祖ともいわれる『北斎漫画』も残した。
1817年(57歳)名古屋の西本願寺別院にて120畳の大きさのダルマを描く。
1820年(60歳)為一の画号を名乗るようになる。
1823~1833年(63~73歳)代表作『富嶽三十六景』を制作。
1834年(74歳)画狂老人卍の画号を名乗る。『富嶽百景』を制作。肉筆画や風俗画・古典を題材にしたもの、後進への絵手本などに積極的に取り組む。
1849年(88歳)浅草寺の子院・遍照院にて静かに息を引き取る。
絵画に興味をもち、自ら絵の世界へ飛び込んだ幼少期
葛飾北斎は1760年10月31日、武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の墨田区)にて、川村家という農家の息子として生まれました。
本名は川村鉄蔵。
葛飾北斎というのはのちに彼が名乗る画号、いわゆるペンネームです。
詳しい経緯は語られていませんが、北斎は4歳から幕府御用達の鏡職人・中島伊勢の養子となります。
となると将来は鏡職人…と普通はなるところですが、北斎は当時、木版技術の発達により多彩な作品が登場しだした浮世絵の世界に没頭するように。
中島家の家督はその家の実子に譲り、14歳のころには家を出てしまいます。
そしてこれも少しでも絵の世界に近づくためか、貸本屋にて住み込みで働くようになり、仕事の合間に本の挿絵を見ながら絵を学んでいったのだとか。
その後は木版彫刻師に弟子入りして、版画に使う木版の技術を学びます。
少しでも絵に関係のある職に就いて、なんとか絵師としての足掛かりを見つけようという、北斎の情熱が伺えますね。
勝川派時代
なんとしても浮世絵師になりたかった北斎は18歳のころに、当時の人気浮世絵師・勝川春章に弟子入り。
浮世絵師としてデビューするも破門…
19歳のころには勝川春朗の画号をもらい、『瀬川菊之丞 正宗娘おれん』という役者絵で、念願の絵師デビューを果たすことになります。
しかし北斎の絵への探求心は一流派の教えだけで満たされるようなことはなく、彼は他派である狩野派、西洋画の技法なども積極的に学んでいきました。
北斎はこのあと破門を言い渡されるのですが、一説にそれは他派を積極的に学び過ぎたことが理由だといいます。
まあ、ほかの流派を手本にしている時点でもはや勝川派の絵とは呼べないですしね…。
順風満帆ではなかった勝川派時代
1年で画号を与えられ、作品を出しているところから、勝川派でも北斎の才能は認められていたのかな?と思うところですが、実はそんなことはありません。
なんでもあるとき北斎が絵を描いているのを見た兄弟子が「こんな下手くそが浮世絵師を名乗るだなんて…」などと言いながら、北斎の絵を破いてしまったことがあったのだとか。
後に北斎はこのときのことを振り返り、
と思ったそうな。
晩年、まさにその通りになっていることには恐れ入りますね。
また絵師として仕事をもらっていたとはいえ、その生活は厳しいもので、お金が足りないときは唐辛子を売ってなんとかやりくりすることもあったといいます。
先輩にいじめられ、貧乏に苦しめられ、それでもよく絵を描き続けたものです。
葛飾北斎を名乗る
勝川派を追い出されると、後に北斎は独立し、自分はどの流派にも属さないことを宣言しました。
この「どの流派にも属さない」というのはよく言ったもので、45歳のころに葛飾北斎の画号を名乗るようになってからの作風は革新的を極めていきます。
『北斎漫画』『富嶽三十六景』で世界に名を轟かせる
たとえば1814年に刊行された『北斎漫画』は、近代漫画の祖とも呼ばれ、北斎の有名な作品のひとつです。
これはそもそも絵師を志す人のお手本となるよう、弟子たちに向けて作られたものでしたが、ヒットするとにらんだ版元が流通させ、北斎の名を一気に世間に轟かせました。
なんでも陶器を輸出する際の包み紙にも北斎漫画が使われ、それが世界的人気のきっかけになったともいいます。
これによって19世紀のヨーロッパにはジャポニズムという文化まで生まれていたといいますから、それはまあ恐ろしい影響力です。
また同じぐらい有名なのは1823~1833年にかけて制作された『富嶽三十六景』。
富士山をさまざまな土地や角度から切り取った計46作品のこのシリーズは、それまで人物中心だった浮世絵の世界に革命を起こしました。
なかでも特に『神奈川沖浪裏』という作品からは、画家のゴッホや音楽家のドビュッシーもインスピレーションを得ていたといいます。
さらには120畳にも及ぶ大きなダルマの絵もこのころに描いていますし、45歳以降の北斎はまさに革命続きだったわけです。
これも「北斎は本の挿絵とか、小さい絵ばっかりじゃないか」といわれたことからだとか。
兄弟子に下手くそ呼ばわりされた件といい、北斎はとっても負けず嫌いだったんですね。
そんな意志のもと、絵にひたむきに向き合い続けた北斎でしたが、自身の画力に満足する日は結局訪れず、1849年、88歳にしてその生涯を終えます。
死に際にも「あと10年生きられれば…」などと言っていたとのこと。
まったくもって感服させられる情熱です。
画号を30回以上も変えた北斎
一般的に浮世絵師というのは、画号をそんなに頻繁に変えるものではありませんでした。
あまりコロコロ変えられては、ネームバリューが効かなくなり、売れるものも売れなくなってしまいますから…。
しかし北斎にいたっては生涯になんと30回以上も画号を変えています。
有名なものだけ挙げても、最初の勝川春朗からはじまり
・北斎辰政
・葛飾北斎
・為一
と多岐に渡り、晩年は画狂老人卍という、なんとも奇妙な画号も。
これだけ画号を変えたのは一説に、「世に真の実力を問うため」といわれています。北斎はネームバリューではなく、絵画自体の価値を世間に判断してほしかったのですね。
きょうのまとめ
葛飾北斎の生涯を辿ると、独自の才能が発揮されだしたのは40代になってからの話。
それまでの下積みの時代もまた長いということに気づかされます。
型破りな革命家というイメージを抱きがちですが、「まずは基本を学んで、そこから自分流にアレンジしていく」という、実はすごく基本に忠実な絵師だったのです。
やり方はほかの絵師と変わらなかったのかもしれません。
何より圧倒的な情熱と勉強量が北斎を達人の域に導いたといえますね。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 幼少期から浮世絵に魅せられていた北斎は、貸本屋、木版彫刻師などの職を通してその足掛かりをつかもうとした
② 晴れて浮世絵師になれたものの、勉強熱心が行き過ぎて他派の技術を学んだため破門になる
③ 独立してからの北斎の作品は近代漫画の祖『北斎漫画』や、浮世絵界に風景画の流れを作った『富嶽三十六景』など、どれも革新的だった
90年近くにも及ぶ人生のほとんどを絵に費やした葛飾北斎。
「これだ」と決めて邁進するその姿には、男心をくすぐるロマンがありますね。
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