エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』が後世に与えた影響とは?

 

1690年から約2年、オランダ商館付医師として日本を訪れた

エンゲルベルト・ケンペル

彼の一番の功績は、『日本誌』という大著を後世に残したことです。

この日本誌という書物、なにがそんなにすごかったのでしょう?

具体的に、どんな影響をヨーロッパに与えたのでしょう?

その概要を知れば、ケンペルの努力や、残した資料の意義深さが見えてくるはずです。

 

エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』とは

エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』は、彼の死後、イギリス人収集家ハンス・スローンによって出版されたもの。

スローンは競売にかけられたケンペルの手記やスケッチ、収集品などを買い取り、そのなかにあった『今日の日本』という手稿を秘書のカスパール・ショイヒツァーに英訳させました。

これが1727年に刊行された最初の日本誌です。

18・19世紀ヨーロッパに多大な影響を与えた『日本誌』

日本誌は英語版のほか、オランダ語やフランス語にも訳され、ヨーロッパへ広く出回っていきます。

当時のヨーロッパには、この本ほど日本について詳しく書かれたもの、また学術的根拠を示して書かれたものは存在せず、その内容は学者たちの注目の的になりました。

フランスの哲学者ドゥニ・ディドロが20年以上かけて完成させた『百科全書』の日本の項目は、ほぼすべて日本誌を参照したもの。

そのほかモンテスキューの『法の精神』にも引用されていたり、18世紀ヨーロッパの日本研究には欠かせない資料となっていたのです。

また、1823年に来日したオランダ商館付医師・シーボルトも日本誌に感銘を受けた人物のひとりでした。

当時のヨーロッパではイチョウの木はすでに絶滅しているというのが通説。

シーボルトは日本にイチョウが生えていることをこの本で知り、とても感動したのだとか。

その後、19世紀ヨーロッパでは、一大ムーブメントとなる「ジャポニズム文化」が勃興。

きっかけはパリ万博に日本の美術品が出品されたことでした。

しかしこの出品は、日本誌による関心の高まりがなければ成し得ていません。

ジャポニズムは、モネやゴッホの作品にも影響を与えた文化。

ルイ・ヴィトンのダミエやモノグラムといった柄も、日本の家紋や市松模様からインスピレーションを受けているといい、その影響力は計り知れません。

『日本誌』の研究は未だに続いている

1777年には、ドイツの思想家・ドームによってドイツ語版の日本誌が刊行されます。

これはケンペルの甥ヨハン・ヘルマンの写本を清書したもので、スローンの日本誌とはところどころ内容が異なっていました。

スローンの日本誌は、読者ニーズを考えて表現を変えた部分、また英訳の過程で変わってしまった部分があったためです。

その後、スローンのコレクションは大英博物館に。

甥に相続されていたケンペルの遺品はドイツのデトモルトにて管理されており、これらをもとに、今でも日本誌の研究が続いています

日本を訪れていた2年のあいだ、ケンペルがどれだけ膨大な情報収集、研究を行っていたかを思い知らされますね。

2001年には初めて、原本の手稿をもとにした日本誌を発表。

これに関してもスローンによる英語版、ドームによるドイツ語版の二作とは大きく内容が異なっているといいます。

 

『日本誌』に書かれていたこと

日本誌の内容は、

・バタヴィアから日本までの旅行記

・日本の地理

・政治体制や歴史

・長崎の貿易

・江戸参府の記録

など、多岐に渡るもの。

なかでも特に影響の大きかった内容をここで紹介します。

日本の政治体制について

ケンペルは日本誌のなかで、

ケンペル
日本には聖職的な皇帝(天皇)と、世俗的な皇帝(将軍)の二種類がいる

と紹介しました。

伝統的なトップである朝廷が、武家に政治を委託していた中世日本の構造。

それがこの一言に集約されています。

また日本の鎖国についても触れ、ケンペルはこれを称賛しました。

実質、江戸260年の平和は鎖国がもたらしたものですよね。

日本という国がいかにして成り立っているのか、その特異な政治体制に、ヨーロッパの人々も強く興味を惹かれたはずです。

ちなみに鎖国について触れられたのは日本誌の付録論文にて。

1801年に、これを蘭学者・志筑忠雄が『鎖国論』と訳したことで、鎖国という言葉が生まれました。

日本人の起源について

ケンペルは日本誌で日本人の起源についても触れており、この研究もまた、従来のヨーロッパ人の見解をくつがえしています。

ヨーロッパではこれまで、日本人は中国人から派生したと考えられていました。

しかしケンペルは言語や文字、生活習慣の違いなどから、日本人と中国人はまったく別の民族であると示したのです。

ケンペルの考察では、「日本人はバビロン(現・イラク)から直接日本にやってきた民族」だといいます。

古代メソポタミア文明が、そのまま日本につながっているということですね。

その根拠を示すため、生活に必要となる水や食料を計算に入れながら、日本にいたった道筋まで、地図を使って説明しているのです。

ここまで学術的に日本人の起源を示した書物は、これまでにありませんでした。

また、ケンペルはこの項のあとに、「日本人の考える日本の起源」についても紹介しています。

イザナミ・イザナギというふたりの神様が日本を作ったとする日本神話です。

また天皇が紀元前660年の神武天皇以来、ずっと直系の子孫であることや、それを日本人が誇りに思っていることにも触れています。

ケンペルは学術的な内容だけでなく、そういった土着の文化に着目することも、民族性を知るうえで大切であるとしたのです。

江戸参府旅行記

ケンペルは1690~92年の日本滞在時、二度の江戸参府を行いました。

おもしろいのがそのときの旅行記の内容。

江戸に参勤したケンペルは第5代将軍・徳川綱吉に謁見しており、綱吉はその際

綱吉
ダンスを見せてくれ

キスを見せてくれ

などとお願いしてきたというのです。

ダンスに関してはケンペルもその場で踊ってみせたそうですが、キスを見せてくれって…誰にしろと?

当時の西洋人への偏見が垣間見えておもしろいですよね。

 

きょうのまとめ

18、19世紀ヨーロッパの日本の認識を大きく変えた『日本誌』。

ケンペルの人生をかけた日本研究は、後世に新たな文化を勃興させました。

ひとりの尽力がこれほどの影響力をもつというのは、なんともロマンのある話ですよね。

最後にまとめをしておきましょう。

① エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』ほど、学術的根拠を示し、詳細に日本を紹介した書物はそれまでのヨーロッパに存在しなかった。同書は多くの学者に影響を与え、19世紀のジャポニズム文化にも派生していった。

② ケンペルの遺品は大英博物館、ドイツのデトモルトで管理されており、『日本誌』の研究は今でも続いている。その膨大な情報量から、1727年発刊の英語版と後世のもので内容が大きく違う。

③ 日本の政治制度や日本人の起源など、当時の日本の成り立ちを示したものが注目されている。江戸参府の旅行記など、読み物としておもしろい部分も。

一度は読んでみたいものですが、そのお値段は日本語新版にしてもちょっとお高め。

大学の図書館などで置いているところもあるので、興味の湧いた人は足を運んでみるのも手です。

 
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