源平合戦で軍奉行を務め、鎌倉幕府の成立に大きく貢献した御家人
梶原景時。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、歌舞伎役者の中村獅童さんに配役が決まり、注目度も高まっているこの人物。
「石橋山の戦い」にて、平家勢に敗れた源頼朝を、敵方ながら庇った逸話でも知られています。
以降、頼朝の側近となるも、不遜な態度から多くの御家人の反感を買い、最後は一族もろとも追討される立場に。
しかし、景時の子孫はここで途絶えたわけではありません。
室町・戦国時代にも、活躍した形跡がしっかり残っているんです。
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梶原景時の子孫・家系図
以下が梶原景時の家系図です。梶原氏は、桓武天皇の子孫にあたる坂東八平氏の一角・鎌倉氏の分家と考えられており、その初代が梶原景久。
景時はそのひ孫にあたります。
鎌倉で勢力を築いた梶原氏は、景時の代で鎌倉幕府へ出仕したことで、一気に全盛期を迎えていくこととなりました。
景時とその息子たち
景時には息子が7人。
本人が将軍・源頼朝に重用されたことはもちろん、その息子たちも幕府で厚遇されています。
それも親の七光りというわけではなく、本人たちにちゃんと武功があってのことだったといいますよ。
源平合戦での活躍
鎌倉幕府成立の契機となった源平合戦において、景時は軍の指揮を担う軍奉行として従軍。
このとき、
次男・景高
三男・景茂
の三人も、軍に従って戦っています。
特に戦功があったとされるのが、「一ノ谷の戦い」において。
梶原親子は源範頼の軍に従い、平家軍と対峙しました。
すると、自身に与えられた500騎の兵を率い、いち早く突撃を開始したのが次男の景高です。
後続のことなどお構いなしに進軍する景高を、景時が諫めようとするも
「一度放った梓弓が返ってこないように、武士たる者、一度突撃して引き返すことなどできません!」
と、景高に止まる気配はありません。
(※梓弓…神事などに用いる弓のこと。梓の木で作られている)
やむを得ず、景時は景季、景茂を伴い、急いで軍を展開。
大半の敵方を討ったのちに撤退するものの、今度は長男の景季が敵陣に深入りして戻りません。
これを救うため、景時らは再度平家軍に突撃。
結果として大きな打撃を与え、源氏の勝利に貢献することとなったのです。
この一件は「梶原の二度懸け」と呼ばれ、源平合戦中でも特に功を奏した戦法と言い伝えられます。
無断任官で鎌倉入りを禁じられた景季・景高
源平合戦の功績によって、源義経が朝廷から官位を授かり、これを無断任官とした頼朝が激怒した逸話は有名ですよね。
これは要するに
という理由によるものでした。
そして実は、このとき官位を授かった面々には、景時の息子たちも含まれていたのです。
そのため、長男・景季、次男・景高のふたりは、義経の例にならい、鎌倉入りを禁じられることになります。
景高にいたっては、
「素行が悪いことは知っていたが、まさか官位まで賜ろうなんて見苦しい」
と、散々な言われようをしています。
ただ、このあと結局、梶原兄弟は鎌倉入りを許され、義経だけが追討されるハメに。
この対応の違いは、やはり景時が頼朝の側近の地位に与していたからこそといえるでしょう。
「梶原景時の変」を経ての動向
源平合戦以降、梶原一族は幕府の重臣に名を連ねていきますが、その隆盛も頼朝の没年までのこと。
景時は側近の地位を利用した理不尽な対応から、御家人たちに敵視されていました。
そして1199年、結城朝光を謀反者と断じようとしたところ、逆に御家人たちから連判状を出され、鎌倉を追われる立場となってしまいます。
以後、一族を率いて上洛を試みるも、その志半ばで討伐に逢い、景時は息子たちともども没することとなりました。
こうして、潰えてしまったかに見えた梶原一族。
しかし、実はこのあとも子孫たちには動きがあります。
次男・景高の息子・景継は再び幕府に仕官。
1221年の「承久の乱」で討ち死にしていますが、その子孫は足利氏の被官となり、室町時代には将軍家に仕えています。
また、三男・景茂の長男・景俊は鎌倉に残り、その子孫が鎌倉公方の奉公衆を務めるようになりました。
(※鎌倉公方…将軍家から関東地方の統治を任された役職。天下の副将軍とも)
このほか、景茂の次男・景永の子孫は近畿から中国地方へと拠点を広げ、各地で一族を繁栄させていきます。
戦国時代の子孫
以上のように、それぞれに引き継がれていった梶原一族は、戦国時代にも随所で台頭を見せます。
なかでも特に目立っていた3人を見てみましょう。
鎌倉公方奉公衆・梶原政景
鎌倉公方の奉公衆に列せられた梶原景俊の血筋は、戦国時代に入り、一時断絶を迎えています。
しかし1557年のこと、武蔵国(現・埼玉県)岩槻城主・太田資正の次男・政景が梶原家の養子となり、家系を復活させました。
政景は最後の鎌倉公方・足利義氏の近臣として仕え、その没落ののちは常陸国の大名・佐竹義重の家臣に。
豊臣政権下では、「文禄の役」にて、朝鮮半島にも従軍しています。
羽黒城主・梶原景久
三男・景茂の子孫のうち、尾張国へ土着した一族は、戦国時代にかけて織田家の家臣となりました。
羽黒城主・梶原景久は信長の上洛以降、
・浅井氏
・石山本願寺
との勢力争いにて、各地で奮戦。
織田・徳川連合軍による甲州征伐など、名のある戦にたびたび従軍しています。
しかし、最後は「本能寺の変」で明智光秀に討たれたとされており、信長の死とともに歴史から名を消すこととなりました。
播磨高砂城主・梶原景秀
播磨国(現・兵庫県)高砂城主・梶原景秀は、景時の四男・景義の子孫とされています。
1576年ごろから、織田信長との対決を控えた毛利輝元の調略により、景秀は毛利勢へ加担。
しかし、豊臣秀吉の中国攻めで降伏し、以降は秀吉の家臣となりました。
このあと、1587年の九州征伐にて、進軍が遅れたことを咎められ改易に。
その後、備前国(現・岡山県)へ移り、秀吉の重臣である宇喜多氏に仕えることで、家系を存続させていったといいます。
きょうのまとめ
梶原景時の代で、一気に没落してしまったかに見えた梶原一族。
しかし、その後の子孫たちは幕府や有力大名に従う形で、のちの歴史を動かしていく存在となりました。
戦国時代の動向を見ていると、一族の広がり方の多様さにも驚かされますね。
最後に今回のまとめ。
① 梶原景時の子息たちは、源平合戦で戦功があり、鎌倉幕府でも厚遇されていた。
② 「梶原景時の変」で梶原親子は討たれるも、子孫たちは足利氏に従い、将軍家、鎌倉公方などに仕官していった。
③ 戦国時代の梶原一族には、鎌倉公方奉公衆、羽黒城主、高砂城主などがいた。織田信長・豊臣秀吉の天下統一に伴い、いずれもその配下にくだっている。
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