井伊直弼はなぜ「安政の大獄」を行った?絡み合う政権のしがらみ…

 

井伊直弼なおすけといえば、日本史上でも悪名高い大事件「安政の大獄」の首謀者です。

歴史の授業などでは、直弼の冷酷な振る舞いや、この政策によって幕府が衰退の道を辿ることになったとだけ説明されるので、彼はいかにも悪者というイメージをもっている人が多いでしょう。

しかし詳しい事情を知ると「彼も彼でいろいろ苦労していたのだな…」と、その印象がまた変わってくるはずです。

以下より解説していきましょう。

 

安政の大獄とは

井伊直弼

井伊直弼画像
出典:Wikipedia

安政の大獄は江戸幕府の大老・井伊直弼が1858~1859年に行った政策で、当時の幕府に異を唱えた攘夷じょうい派を徹底的に弾圧したもの。

被害者は大名や浪士をはじめ、朝廷の皇族たち、思想を広めようとした学者にも及び、計100人以上が処刑や島流し、謹慎などの処罰を受けました。

発端は1858年に幕府の最高指揮者である大老に就任した直弼が、

・天皇の許可を得ずに日米修好通商条約の締結をしたこと

・意見が割れていた将軍継嗣けいしを自らが支持していた徳川慶福よしとみ家茂いえもち)に決定したこと

にあります。

これを問題視した攘夷派は孝明天皇に働きかけ、幕府を非難する内容の戊午ぼご密勅みっちょくという声明を受け、幕府内の改革を推し進める権利を得るのです。

直弼はこれに対抗して密勅の返納を求め、攘夷派を激しく弾圧。

結果さらに反感を買うことになり、「桜田門外の変」にて直弼が襲撃され、没することでようやく収束した…というのが一連の流れです。

これだけを聞くといかにも直弼の暴挙だけが目立って見えますが、詳細に見ると当時の政権のしがらみが複雑に絡み合い、仕方のない部分もあったことが浮き彫りになってきます。

 

直弼は無許可の開国に反対だった

安政の大獄はもとはといえば、直弼が天皇の許可なくアメリカと条約を結んだことがきっかけですが、実のところ、彼は無許可での条約締結には最後まで前向きではなかったのです。

まずこのとき、老中の堀田正睦まさよしが京へ上り、天皇の許可を取り付けに向かっていますが、孝明天皇は根っからの攘夷派で許可が得られませんでした。

しかし清とイギリスのアヘン戦争が終結した直後ということもあり、アメリカは

「早く条約を結ばないと、清みたいにイギリスに攻撃されてもいいのか?」

と脅しにかかります。

イギリスももちろん脅威でしたが、目前に展開された大量の軍艦…アメリカのその圧倒的な軍事力もやはり恐ろしい。

「これ…とりあえず無許可でも条約を結ばないとヤバイんじゃないか?」

と考える者が、幕府の人間にも増えていきます。

そしてアメリカと直接の交渉に向かったのは、直弼ではなく下田奉行井上清直きよなおでした。

何を隠そう彼もアメリカの軍事力を恐れていたうちのひとりで、

「やむを得ない場合は条約を締結してもいいか?」

と、直弼に指示を仰ぎます。

これに対し直弼は

直弼
本当にどうしようもないなら仕方ないが、できる限り引き伸ばすように

と指示したのですが、清直は「条約を結んでいい」と捉え、日米修好通商条約に調印してしまったのです。

直弼ばかりが攘夷派に非難されているので、いかにも彼が強引に条約を結んだかのように思われがち。

部下の判断だったというのは意外じゃないですか?

 

なぜ直弼は攘夷派をそこまで徹底的に排除した?

天皇の許可なく条約を結ぶことに反対だっただけでなく、直弼は応急処置として開国を選んだものの、いずれは鎖国に戻してもいいと考えていました。

それなら攘夷派の反発にも理解を示してもよさそうに感じますが…いったい、なぜあそこまで徹底的な弾圧をしたのでしょう?

幕藩体制の崩壊を危惧

まず条約の締結に伴い、天皇から幕府の内部改革を行うようにお達しを受けたのは、水戸藩と薩摩藩でした。

本来、朝廷から政治を任されているのは幕府だけです。

その幕府をすっ飛ばし、支部に当たる藩に指示が行くというのは異例の事態。

これは250年に渡り維持されてきた幕府の地位の転覆を意味するもので、最高指揮官を務める直弼としては、なんとしても阻止しなければなりませんでした。

攘夷派が条約の締結に反発するのは理解できたとしても、直弼にとっては幕府の威厳を守ることが優先事項だったのです。

政権運営の混乱を避けるため

また天皇が反対していたということで条約の締結ばかりが注目されていますが、このとき同時期に決まった徳川慶福よしとみの将軍就任も見逃せません。

これを巡っては徳川直系の血筋をもつ慶福派と、直系ではないものの優秀だと名高い一橋慶喜ひとつばしよしのぶ派で意見がわかれていました。

これは実のところ、諸大名のうち誰が幕府の権限を握るかという、政権の運営を巡っての分裂です。

幕府はそもそも将軍と、初代の家康のころに側に仕えていた家臣から成り上がった譜代大名を中心に運営されていました。

しかしこの時代、黒船来航などで海外列強の脅威にさらされ、譜代大名だけではまとめきれないと、徳川の親族にあたる水戸藩薩摩藩などの大名にも意見を求めるようになります。

そこに将軍継嗣の問題が絡んでくることに。

一橋慶喜はそれこそ水戸藩主・徳川斉昭なりあきの息子だったため、彼が将軍になれば、譜代大名の権限が弱まることを意味していました。

結果、慶福が将軍にはなったものの、権限を譜代大名から手繰り寄せようとする攘夷派の諸大名を放置していては、政権の運営も混乱してしまいます。

これが、直弼が安政の大獄で弾圧を行った一番の理由といえるでしょう。

結局、開国うんぬんの話というよりは、幕府内での権利争いだったということになりますね。

やり方はちょっと行き過ぎてしまった部分もありますが…事情を知るといろいろストレスにさらされる立場にあったのだな…と少し同情してしまいます。

 

きょうのまとめ

安政の大獄は幕府がその権限を維持するために、反対派を100人以上も弾圧したという大事件。

井伊直弼がこれを決行した背景には、幕府の重責や政権を巡っての派閥争いなどが複雑に関係していました。

考えれば考えるほど、単に「残酷だな」では済ませられない問題だったとわかりますね。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 井伊直弼は、本当は開国に反対だった

② 朝廷から藩に直接指示が行くことは、幕府の威厳を維持するためにあってはならないことだった

③ 当時の幕府は譜代大名が権限を握るか、徳川の親族にあたる諸大名が権限を握るかでややこしい状況だった

攘夷派から見た正義もあれば、幕府側の正義もある…そして開国したからこそ、現代に向けて日本が発展した部分もやはりあります。

こう考えると何が正しいかは本当に断定できないものですね。
 
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