戦国時代、関東で覇を唱え、100年もの長きに渡り存続した「北条氏」。
その基盤を作った北条早雲。
一介の素浪人から、一国の君主にまで上り詰めた、下克上の代表的な人物として語られることが多いのですが、
実際はそうではなかったようです。
簡単に説明をしながら、その人物像に迫ってみたいと思います。
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北条早雲はどんな人?
没年88歳とする説が主流でしたが、
近年の研究で64歳説が有力とされているので、それに従って記載していきます。
- 出身地:備中荏原荘(現・岡山県井原市)
- 生年:1456年
- 没年:1519年(享年64歳)
- 伊豆討ち入りから相模平定を成し遂げ、戦国期北条氏(後北条)の関東圏支配の基盤を作った人物
北条早雲 年表
西暦(年齢)
1456年(1歳)備中国高越城で生まれる。
1483年(28歳)9代将軍足利義尚の申次衆に任命される。
1487年(32歳)将軍足利義尚の奉公衆となる。
同年11月、今川氏のお家騒動に、将軍家の意向を受けて仲介に入り、兵を起こして駿河館を襲撃。その功により、伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられることになる。
1493年(38歳)伊豆討ち入り。
1495年(40歳)小田原城奪取。
1497年(42歳)南伊豆の深根城を落とし伊豆を平定する。
1506年(51歳)相模で初めての検地を行い支配強化を図る。
1512年(57歳)相模の岡崎城と住吉城を攻略。鎌倉に入り相模の支配権をほぼ掌握する。
1516年(61歳)相模で大きな力を持っていた三浦氏を滅ぼし相模平定。
1518年(63歳)家督を嫡男・氏綱に譲る。
1519年(64歳)韮山城にて死去。
名門の流れを汲み後北条氏の基盤を築く
斎藤道三、松永久秀と共に、戦国期の下克上の典型として語らることが多かった北条早雲。
近年の研究でそのイメージとは大きく違った早雲像が浮かび上がってきています。
室町幕府の役職についていた伊勢氏の流れを汲み、父は伊勢盛定、母は京都伊勢氏当主の伊勢貞国の娘を母とし、名門といわれる家柄出身だったようです。
伊豆討ち入り
北条早雲のその後を決定づける
「伊豆討ち入り」は、どのような経過で起こったのでしょう。
早雲の活躍した時期、伊豆で最大の勢力を誇っていた堀越公方です。
堀越公方とは室町幕府8代将軍足利義政が、対立する古河公方、足利成氏への対抗策で、正式な鎌倉公方として送った異母兄、「政知」のことです。
結局、政知は鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に留まってそこに御所を建設したため、そのように呼ばれるようになります。
堀越公方の子供には、
長男・茶々丸
次男・潤童子
三男・清晃
という、三人の男子がいました。
このうち茶々丸だけが先妻の子で、あとの二人は後妻の子です。
後妻の円満院は我が子を後継ぎにしたいがため、ささいな罪で茶々丸を牢に入れてしまいます。
しかしながら、政知が病死すると、その混乱に乗じて牢から出てきた茶々丸の復讐を受け、円満院と潤童子は殺されてしまうことになるのです。
三男の清晃は出家して京にいましたが、政変で10代将軍足利義稙が追放されると、室町殿に擁立され実質上の将軍となります。
還俗して権力の座に就いた清晃は、伊豆国境近くの興国寺城にいた幕府官僚の経歴を持つ早雲に、母と弟の敵討ちを命じます。
これが「伊豆討ち入り」です。
伊豆国の統治
堀越御所のお家騒動に介入した早雲は、伊豆の韮山城を新たな居城として伊豆国の統治を始めることになります。
・病人をいたわり、看護を施す
・税制を改革し四公六民の租税を定める
このような善政を行うことで、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の人々の心をつかみ、早雲は伊豆国を短期間に平定することになるのです。
以後この韮山城を拠点に、小田原城奪取、相模平定を果たして行くことを考えると、この伊豆討ち入りは非常に重要だったといえるでしょう。
今川氏との関わり
北条早雲は、もう一つの顔として、今川氏の武将としての動きというものも見られます。
今川家とのかかわりの深さは、家系図を見ると分かります。
早雲の姉(もしくは妹)にあたる北川殿が駿河守護の今川義忠に嫁ぎ、後に今川家9代目当主となる氏親を生むことになります。
実際、早雲は今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻し、中遠まで制圧することになります。
早雲は甥にあたる氏親と連携できたことが、領国を拡大するにあたって、大きな力になったことは間違いありません。
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きょうのまとめ
このように見てくると、一介の素浪人から成り上がった下克上の申し子的な北条早雲像には、
違和感を感じざるを得ず、次のようにまとめることができるのではないでしょうか。
① 出自は室町幕府の役職についていた名門「伊勢氏」
② 時の将軍の命により伊豆討ち入りをし、後の勢力伸長基盤を作る
③ 甥にあたる今川氏親と連携し勢力拡大を果たす
④ 善政を行い占領地の人心をつかむのに長けていた
堀越御所のお家騒動に介入し、伊豆討ち入りから平定を果たす鮮やかさから、こんな人物像が浮かび上がってきます。
「機を見て敏に動き、大義名分を掲げ、戦後の内政に尽力するのも怠らない」
早雲が定めたとされる「早雲寺殿廿一箇条」には、日々の生活上の心得が記されており、自分自身の行いを修めることの重要性を説いていることからも、単に下克上で成り上がった人物でないことが分かります。
100年という長きに渡り、関東に君臨した後北条は、早雲が作り上げたこのような基盤があったからこそと言えるのではないでしょうか。
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