幕末期、水戸藩は尊王攘夷運動の中核を担った存在。
なにより藩主・徳川斉昭が印象的なのですが、水戸藩攘夷派を語る上では欠かせない人物が、まだまだほかにもいます。
今回は、
藤田小四郎。
大河ドラマ『青天を衝け』では俳優・藤原季節さんが配役を担当します。
斉昭の側近・藤田東湖の子息で、「天狗党の乱」という一大騒動を巻き起こす小四郎。
もちろん、渋沢栄一ともつながりがあり、栄一もその人となりを評価しているという点で注目が集まります。
藤田小四郎とは、いったいどんな人物なのか?
その生涯にせまりましょう。
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藤田小四郎はどんな人?
- 出身地:常陸国茨城郡水戸(現・茨城県水戸市)
- 生年月日:1842年
- 死亡年月日:1865年3月20日(享年24歳)
- 水戸藩士・藤田東湖の四男。攘夷を実行しない幕府に抗議するため、「天狗党の乱」を主導する。
藤田小四郎 年表
西暦(年齢)
1842年(1歳)常陸国茨城郡水戸(現・茨城県水戸市)にて、水戸藩士・藤田東湖の四男として生まれる。
1843年(2歳)母・土岐さきが藤田家を放逐される。
1855年(14歳)父・東湖が「安政の大地震」で死去。藩校・弘道館に通い始める。
1863年(22歳)水戸藩主・徳川慶篤に伴い上洛。長州藩士ら、攘夷派志士と交流を深める。
1864年(23歳)横浜鎖港の勅命を巡って、幕府へ挙兵。「天狗党の乱」を起こすも加賀藩に捕縛される。
1865年(24歳)敦賀来迎寺にて、同志352名と共に斬首される。
幼少期
1842年、藤田小四郎は常陸国茨城郡水戸にて、水戸藩士・藤田東湖の四男として生まれます。
東湖は第9代水戸藩主・徳川斉昭の側近として活躍した人物。
『青天を衝け』では、突っ走り過ぎる斉昭を諫めるその様を、「争臣」と言い表す場面もありました。
小四郎の母は、そんな東湖の側室・土岐さき。
このさきという女性の性格には、幼少期の小四郎に通じるものがあります。
普通、側室は正室より目立たないようにと遠慮をするものですが、さきはそれどころか正室に取って代わらんとする肝の据わった女性でした。
なんでも、東照宮の例祭が行われたおり、正室と同じ装いで出席したことが世間から批判されたという話。
これを受けて東湖は正室・里子のメンツを保つため、さきを藤田家から追い出すのです。
そんな、勝気な母親から生まれた小四郎は、兄弟でも隋一のやんちゃ坊主。
早逝した長男を除く3人の息子について、東湖がこんな話をしたことがありました。
次男の健二郎は大人しく鍵番をしているだろう
三男の大三郎は、美人と同室させてほしいと頼んでくるだろう
小四郎は錠を壊して部屋に乱入し、美人を手籠にするだろう」
欲しいものは奪い取ると言わんばかり。
根っからのガキ大将タイプだった小四郎は、大人相手にも気後れせず、東湖をからかう発言をして追いかけ回される場面もよくあったといいます。
一方、東湖が息子のなかで一番才能があると語ったのも小四郎です。
大人をからかうのも、それだけ頭の回転が速かったからなのかもしれません。
尊王攘夷思想の形成
小四郎の祖父・藤田幽谷、父・藤田東湖は、尊王攘夷思想の根幹となる「水戸学」の権威。
(※尊王攘夷思想…天皇の意志に従い、外国人を排除する考え方)
幽谷が基礎を作り、東湖が広めたその教えにならい、水戸藩では幕末にかけての攘夷運動が盛んになっていきました。
そんな儒学者ふたりを輩出した藤田家で育ったこともあり、小四郎も物心つくころには、強固な攘夷思想を抱くようになります。
父・東湖は小四郎が14歳のころ、安政の大地震で亡くなってしまうのですが、
このことがさらに、その意志を継いでいこうという小四郎の想いを強くした側面もあるでしょう。
以降、小四郎は藩校・弘道館で学ぶようになり、22歳のころには、水戸藩主・徳川慶篤の上洛に同行するほどの要人に成長しています。
上洛の際は、長州藩士・久坂玄瑞、桂小五郎(のちの木戸孝允)らと交流があり、
小四郎の攘夷思想はより、確信めいたものになっていったといいます。
幕府への抗議の挙兵「天狗党の乱」
1863年に行われた水戸藩主・徳川慶篤の上洛は、第14代将軍・徳川家茂に伴うもの。
将軍後見職の一橋慶喜には直属の家臣が少なかったため、慶喜を援護する形で水戸藩が同行することになったのです。
このとき、将軍が上洛したのは、朝廷が幕府に攘夷の勅命を下すためでした。
具体的には、諸外国との条約締結により開港していた、横浜港を鎖港するというもの。
しかし、欧米各国の反発もあり、幕府はこれに踏み切れず、勅命はなかなか実行されませんでした。
水戸藩へ戻っていた小四郎は、そんな幕府の弱腰な姿勢を見かね、一世一代の決断をします。
天狗党を主導した小四郎
1864年5月、小四郎は筑波山にて同志60人ほどを集め、幕府へ即時鎖港を要求する、抗議の挙兵を行いました。
水戸藩過激派は、俗に天狗党と呼ばれていたため、ここからの一連の騒動を「天狗党の乱」といいます。
天狗党は水戸町奉行・田丸稲之衛門を主将として結成されたものの、これは小四郎が23歳と若すぎたためで、いわば名目上のこと。
実際は小四郎が指揮を執り、各地を回って兵を集めるのも、先導して行っていました。
このころ、渋沢栄一も小四郎と三度ほど話をしており、その印象をこう語っています。
栄一から見ても、かなり求心力の強い人物だと感じたことが読み取れますね。
暴徒と見なされ討伐対象に…
小四郎の奮闘の甲斐あって、天狗党は1500人もの軍勢に膨れ上がります。
ただ、それだけの人数が集まれば、統率するのもまた一筋縄ではいかないもの。
天狗党は兵糧や資金を工面するため、近隣の村を頼るのですが、なかには乱暴な手段で強奪を行う者も出てきます。
これによって幕府からは暴徒と見なされ、討伐対象に。
また水戸藩内の保守派は、これを藩政を握るチャンスと見て、天狗党はもちろん、藩内の過激派を一気に排斥しだします。
事態は”幕府&水戸藩保守派vs天狗党”という構図の「那珂湊の戦い」へ発展していきました。
これに敗れた天狗党は、幕府に直接訴えかけることを諦め、天皇への直訴を画策。
横浜鎖港に賛成していた一橋慶喜を頼りに上洛を試みます。
しかし、暴徒と見なされた天狗党に、もはやそんな望みは残されていませんでした。
幕府の追討軍により、脱落者が相次ぐその最中、ついに一橋慶喜までもが、天狗党の討伐隊を派遣したという報告が飛び込んでくるのです。
これにはもうなす術なしと、小四郎らは越前敦賀にて降伏。
1865年3月20日、敦賀の来迎寺にて、352名の同志と共に斬首の刑に処されます。
ちなみに小四郎らの降伏を受けた加賀藩は、一橋慶喜の命で動いていました。
彼らは天狗党を捕らえはしても、食料や酒、風呂や暖かい寝床などを用意し、険しい道を進軍してきたことを労ったという話。
小四郎らの気持ちをわからないでもないという、慶喜の温情が伝わってのことなのでしょう。
きょうのまとめ
幕末期、一世を風靡した水戸藩ですが、天狗党の乱以降はその勢いを失っていくこととなります。
藤田小四郎という人物は、いうなれば水戸藩攘夷派の最後の灯だったわけですね。
最後に今回のまとめです。
① 藤田小四郎は、藤田東湖の子息きってのやんちゃ坊主。大人をからかうことが多々あり、そのくせ才能も隋一であると認められていた。
② 小四郎は、水戸学の権威であった父や、上洛の折、交流した長州藩士たちの影響を受け、尊王攘夷思想を強固にしていった。
③ 攘夷を実行しない幕府に抗議するため、天狗党を結成。天皇への直訴を画策し上洛を目指すも、その途中、頼りにしていた一橋慶喜が討伐隊を派遣。降伏の末、斬首の刑に処される。
罰せられてしまった小四郎にしても、渋沢栄一にいわせれば
「信じた義に従い、生を捨てる意気のある人物」
良い、悪いは別として、立派な生き方をした志士の一人なのです。
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